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瞑想を続ける理由・その①

7月が始まりましたね。ここバンクーバーにも、やっと先週夏が到来しました。イギリスにとてもよく似た、サラサラしていて涼しげな、過ごしやすい夏。
日本はまだ梅雨だけど、例年より雨が少なく、気温が高いと聞きました。皆さんの住んでおられる地域はいかがでしょう、体調等は崩されていないですか。

先日noteで投稿をしてみたら、お便りをいくつか頂きまして、そのほとんどが心の働きや瞑想、ヨーガに関するご質問でした。少しずつ、私の答えられる範囲にはなりますが、今後取り上げられたらと思います。けれど、知っていて欲しいのは、私の答えが絶対では決してないということ。本当はこんな答えなんて、人の数だけあるようなものだと思うのですが、もしも皆さんの何かのヒントになるならばという気持ちで、シェアをします。

今日は私の瞑想を続けている理由・その①について。理由は複数あるのですが、今日はその中の1つを選んで共有したいと思います。

さて、お便りを下さった方から。
「動くヨガはスカッとして気持ちいいんだけど、瞑想は正直言って全然気持ちよくありません。できるようになったら何となく心が安定するのかなって想像するんですが、全然続きません。先生が瞑想が続けている理由は何ですか。」

瞑想って、気持ちいいものだと思ってたけど、始めてみると気持ち良くない。よく聞く感想です。そう、瞑想って別に、気持ちのいいものではないと思います。というより、気持ちよくなるために練習してるものではない、という言い方が正しいでしょうか。

マインドフルネスという力を育むためにできる、とても手軽で、そして最強にパワフルな手段だと思っていますが、だけど瞑想だけがマインドフルネスへの道では決してないことも知っています。他にも惚れ惚れするような道がたくさんあるのだけれど、私はたまたま、瞑想のyogaが大好きになっただけなんだろうなと。
本当は時間が許すのであれば、瞑想のyogaや茶道以外のマインドフルネスへの道にも入ってみたいのですが、これはもう少し大きくなった時のお楽しみにしておこうかな、と思っています。

生きていると、色んなことがあって。
自分でコントロールできることと、私の力では到底コントロールできないことがある。例えば夏が嫌いだからと言って、今年は夏ナシ!とか言って季節をコントロールなんてできないし、雨が嫌だからといって、大雨の天気を一瞬で変えれたりもできないし。人が自然の一部である限り、この”コントロールできない領域”があることもまた、ものすごく自然なこと。       季節や天気を私たちがコントロールできないように、人生の季節や天気も ー 例えばそれは、どこかでこの瞬間に命が生まれることだったり、誰かと出逢ったり、別れたりすること、自分や大切な人が不幸に見舞われたり、思ってもみなかった角度から困難や苦労がやってきたりすることだったり。これらは全て、私たち人のコントロールを遥かに超えている領域で起きることです。

どうやら、自分の身に降りかかってくることというのは、いつもいつも選べるわけではないらしいこの人生。であるのならば、そのあらゆる出来事を受け取る側の、この私の、”受け取り皿”をどうにかすることはできないの?

こんな問いに、明確に答えをくれたのが、私にとっての瞑想のヨガをはじめとする伝統的なヨガと、その基盤のインド(ヨガ)哲学でした。

ヨガにも複数の種類がありますが、最終ゴールはどれも同じ。苦悩や葛藤から自由になって生きること。そして、私の、私たちの、みんなの平和です。
誰かに傷つけられて、何かがあって、何で私だけ、なんでこんなにしんどいの、何で私はこうなの、と思う時。
躍起になって、誰かを傷つけ返したい気持ちや、色んなものに対する怒り、あるいは罪悪感や自己嫌悪感に襲われたりするけれど。
そんな感情や思考の裏にきっとあるんであろう、”分かって欲しい”という思い。これは多分、究極的には、自分にも、他人にも、平和を求めているからなんだろうと思うのです。

自分の人生にやってくることは、コントロールできないことも沢山あって、そんなの毎日やってくる。

こう言ったら喜ばれると思ったけど、嫌われちゃった。全力を出したけど、受け入れられなかった。あの人のとっても近くにいたくて仕方ないけど、相手はどうやら今は同じ気持ちではないみたい。有難う、ごめんね、を伝えられないまま、もう会えなくなってしまった存在もいる。
そんな時、起きた事実は変えられなくとも、その出来事を受け取る、私の”受け取り皿”としてのこの心が、本来の豊かな在り方を取り戻していたのなら。
本来の、平和を知っている、広くて大きくて愛情に溢れた、そんな姿でいられたのなら。
少なくとも、自分の内側のpeace -平和- は見失わずにいられたのなら…。
どれだけ自由なのだろうと思うのです。

世界中の人が、平和に暮らせること。
”How can I be a service to the world?” と思うようになったのは、小学生の頃、ショッキングな人種差別を目の当たりにしたことが最初のきっかけだったように思います。中国語と日本語が分かるアメリカ人として育った中で、数多くの差別を目撃したり、経験しました。そして、以来出会ってきた、虐待を受けた子どもたちや動物たち、自立を許されない女性や、学校に通わずに銃を持っている子どもたち、色んな障がいを持つ子どもたち。

正義感が無駄に強いと、胸が痛んだり感情が揺さぶられた時、ついつい正義という剣を自分で正当化して、誰かをぶった斬ってしまいそうになる。
そうやって、私の中のpeace -平和- を見失っては、葛藤という苦悩から抜け出せなくなりそうになる。
“Peace only starts within yourself(平和は、君の心の中からしか始まらないんだよ).”  Activistとしても精力的に何年も活動を続けている、心から尊敬するグルジ(恩師)が何度もこう言って聞かせてくれているのに、どうしようもなく人間な私は、すぐ忘れるわけです。

So I sit, though. Sit to meditate. だから毎朝、座ります。座って、瞑想をして、心の本来の姿を、平和を知っている自分を、思い出してから一日を始めるわけです。
今日も、ここから、この平和な居場所から、1日を始めよう、と小さく私と約束をして。

昨日までも、また色々あった。あれはどうしよう、これはどうなるんだろう、と不安も拭えないし、まだあの恐れも、あのイライラした怒りも、あの後悔も、あの件で癒えていない気持ちも、誰かみたいにできない自分を責めたくなる気持ちも。まだ、ある。あるんだけれど。

昨日までの過去でもなく、明日以降の将来でもなく、今日のこの「今」に全力で、自分から平和を広げられる人であろう、と。


そんなこんなで瞑想のヨガに入って17年。
全然、まだまだ、思いきり、人間な私。
だけど何だか、この人間らしさが愛おしくすら思える近年。
だってこんなにも自分を人間くさく、人間たらしめているのもまた、自分たちが何とも豊かな存在だからなんだという証拠に思えて仕方がないのです。


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