人生と心の腐敗、摂食障害

noteを登録したものの、何を何から書けばいいのか長いこと悩んでいた。自分自身について書きたかったのに、連続的な自分の歴史や内面の思考を言語化しようと構想するものの、なかなかに難しい。しかし、前置きは一旦横に置いて今も自分自身が渦中にいるテーマを中心に書こうと思う。至って健常に、普通に見える私だが、実際は決してそうではない。ちなみにこれを書いているのは後期の科学英語の授業中で多少の罪悪感はあるが英語は多分聞かなくていい。最終的に乱文かつ4000字を超える長文になってしまった。


私が摂食障害を発症したのは恐らく高3、17歳の時だったように思う。元々ADHDがあり、当時、高校のクラスと受験のストレスで鬱病を抱えていた。ADHDは生涯付き合う発達障害であるが、自分自身の内面の精神的な病気である鬱と摂食障害はこの数年間の間に寛解した時期はあったものの未だに治り切ってはいないし、完治する見込みはない。


毒親じみた家庭環境で両親とは幼い頃から喧嘩が絶えなかった。高校を卒業して家を離れるまで少なくとも2日に1日は深夜まで大声で母と私が日本語と上海語の混ざった、叫び合う喧嘩をしていた。控えめに言って壮絶だった。私は親の言うことが全て正しいと思わず、多面的に思案して自分の最終意見を持ち主張するタイプで、母親は自分の意見が絶対的に正しいと信じており、さらに我が強く自分を曲げないため衝突は日常的に避けられなかった。父親は放任的なアスペルガー症候群で、母親は超神経質でヒステリックかつスパルタなカサンドラだった。幸いなことに、最愛の妹だけは定型発達でまともな人間だったが、家庭内は毎日常に荒れていた。十何年間ずっと、衝突のない日々には文字通り無縁だった。近年は猫を飼いだしたのがきっかけなのか時期がたまたま被ったのか、家庭内の環境はずいぶんと一般的には近づいたがそれでも機能不全家族の歴史の方がよっぽど長い。付け加えるなら、私の高校卒業後は妹に母親の矛先が向いたらしい。十数年間私に向いていた母親の矛先が急に全て妹に向けられたために、妹は高校を卒業するまで数百km離れた私に悲鳴のようなSOSのlineをよく送ってきたことを思い出す。


両親は外向的な人付き合い、友人関係の構築と維持が得意でないのかあるいは好きではないのか、希薄だった。祖父母は私が幼い頃にみな亡くなってしまったし、母方の親戚は上海にみな住んでおり、父方の方はみな県外に住んでいたことに加え財産分与で揉めてからほぼ絶縁状態だ。子供の私と妹はコミュニケーション能力を家の外で必死に身に着けたように思う。外で対人関係に努力をするたびに家の中を振り返ると両親のコミュニケーション能力の低さを痛感したものだった。自慢の妹は昔から器用で要領のとても良い気質だったが、ADHDの私は妹に決して敵わないが、それでも今日に至るまで挫折を乗り越え努力を重ね、そこそこな大人にはなれたと思っている。


そして6歳から現在進行形でずっと属している学校という環境が、本当に嫌いだ。私の生来の重度にドライな性格と単独行動が好きな性分は、日本の集団生活には不適合だ。決して友人ができなかった、いなかったわけではないし、私はこんな自分自身と関係性を保ってくれる友人たちのことは疎遠になったとしても愛している。しかし甲高い声で笑う、他人を指して小声で馬鹿にして盛り上がる多くのスカートの短い女子たちが苦手だった。彼女たちがクラスの大半を占めるとき、私はいじめの対象にされるか透明人間として扱われるかだった。実際、小学校の6年間のうち半分以上は日々いじめを受け、鬱を発症した高校のクラスでは私は見えない存在だった。どんなに気が合わず孤立しても、一日の大半をあの箱に閉じ込められ空間を共有して過ごさなくてはならず、そしてその日々は永久的に続く。修学旅行で行った北海道は、気の合わないクラスメイトたちのせいで楽しさが半減してしまって非常に残念だった。クラスマッチも体育祭も、普段クラスの誰も何も私に良くしてくれないのに行事だからといって都合のいい時だけクラスに協力したり貢献したいとは到底思えず、サボったり休んだ。集団生活とその帰属意識の強制はあまりに残酷だ。


そして母は厳しかった。しかし自らが外国人で家庭に非協力的な夫を持ち、会社員を兼ねていた母親の境遇を考えると仕方なかったと思う。まず私は病気がちな体質で、小学校では私のトラブルが毎年のように起き、中学の吹奏楽部の365日休日返上の練習のために送迎と弁当作りが課せられ、高校では塾の送迎と低い成績に負担も心労も大きかっただろう。私が長女で誰も助けてくれないADHDの子育ての上、私の将来に対する不安が非常に大きいあまりアタリが強かったと高校卒業後に謝ってくれたが、私もその心情を理解できたし決して責めたくないが、母のその気質は家庭内の戦火そのものだった。あれが対人のコミュニケーションとは絶対に受け入れられないが子供はそれを避けられない。母は私と妹に小学生のうちに家事を全て叩き込み、少し不器用で要領のあまり良くなかった私は年下の妹と比べられては怒鳴られ、叩かれた。両親共働きのためにその厳しい訓練によって高い家事スキルを身に付けさせられたことは結果的に良かったが、怒鳴れば、叩けばすぐに身に着くというものでは無い。その当然の発想がなぜか母親にはなかった。小学生の時からテストで100点をどれだけ取ろうが、学校で褒められるような出来事があろうが、母親は少しも褒めてくれず粗を探しては怒っていた。些細なことで登校前に200回ぶたれたことも一度でなかったし、茶碗を投げつけられて足に破片が刺さったり、包丁を向けられたことなんかもあった。小学校の時、クラスでずっと酷いいじめを受けていても母親には告白すると必ず責められ、怒られたのでやがてどんな虐めでも言わなくなった(もちろん振り返ると自分の至らない点も多かったが、あまりに理不尽な虐めだった)。列挙してもキリがないが、幼心ながらに母親の教育方針には違和感を覚えていてばかりいたので母親は私の生涯の反面教師である。やがて私が心から行きたいと主張した進路は悉く否定され、スポンサーとしての権力のもとに私は従うほか無かった。親の指定した道そのものが苦しく狭い進路であり、結局今もずっと泣きながら向いていない勉強を続けている。当然、どんなに頑張っても適性がないので苦労しかないし、適性のある道に進めさせてくれれば誰よりも結果を残したという自信があるが、うちのスポンサーは地獄を体現した人であるからすぐに激しい喧嘩になり、そしてどれだけ自分の思いを訴えて喧嘩をしても要求は1ミリも通らない。諦めて従う他ない。無情だ。怒って怒鳴れば成績が上がるわけでは無いという当然の摂理が母親の頭の中にはなかった。


加えて父親は優秀な学歴を持っていたにも関わらず、本人の性分のため幾度も転職を繰り返し、その度に給料は低くなっていった。そしてしばしば母親に対してモラハラ的な発言をしたことは許されない。両親は歳の差婚で私が生まれた時には父親はすでに40代半ばで、私と妹がこれからお金がかかるというときに、数年おきに低い給料の仕事へ転職を繰り返すので母親も将来に対する不安は大きかっただろう。転職のたびに辛うじてピアノだけは残してもらえたが私はそれ以外の習い事を全て意欲に反して辞めさせられたし、欲しいものは絶対に買ってもらえなかった。国立中学受験は塾に通えなかったし、入学後に私以外は全員塾に通っていたことを知った。また病気にかかると怒られた。風邪を引いたり熱を出して最初に思うことはいつも『ああ、また怒られる』だった。弱っている時に温かい対応などなく、また病院代がかかると怒鳴られた。好きで病気にかかる人など居ないし、生まれつき免疫の低い私自身、健康でいようと努力をしても病気にかかるときはかかるのだ。とてもじゃないがどんな重い病気でも、身体以上に母親から受けるダメージのせいで精神的な面の方がより辛かった。事ある度に、いや毎日のように母親から家庭の経済状況の余裕の無さや父親に対する不満を聞かされ、常に私は『ならどうしろと』と言う他無かった。十数年間、毎日、今も聞かされている。親の心情も分かるが、ひたすらに苦痛だった。私にはどうもできない。両親の苦労と負担は事実であり、真っ当な人生を歩むには絶対にお金が必要で、自分にかかる費用が小さくないことは重々承知している。貧困が争いの元凶ならずして何だというのだろう。あの地獄を美化することは私は絶対に許さない。


まあ、長々と書いてきたが、詰まる所私は10代の間ずっと家庭内にも学校にも居場所がなかったのだ。逃げ場もどこにもなかった。将来のため嫌でも勉強しなければならないので戦争のない平和な場所を求めてよく彷徨っていた。中3になってやっと塾通いをさせてくれてからは塾の自習室が居心地良かった。そして私を唯一肯定してくれたのはいつも4歳から毎週来てくれたピアノの先生だけだった。また、邦楽は一切肌に合わず、洋楽ばかり聴いていたが、これだけは安らぎだった。私の青春は洋楽にあったと言っても過言ではないほど私の友だった。いつかは自分も愛されるのだろうかと、いやあり得ないと思いながらラブソングをいくつも通り過ごしていった。思えば13歳のときに人生で初めての彼氏が奇跡のようにできたが、熱烈な恋愛は経験しなかった。こんな汚点だらけの自分が他人に愛されて良いとは思えなかった。私を好きだと言った人の目が怖かった。ありのままの私を認めて肯定されたいと願う自分自身も少なからずいた。でも、私は全てを信じられなかった。


そして気づけばお世辞にも可愛いとは言えない容貌のため、外見コンプレックスを肥大させていった。小学生の頃、毎日のように外見を罵られたことも起因していた。『ブス』『デブ』を長い梅雨のように浴びた経験は、悲しみは麻痺しても幾つになっても忘れはしない。元から無かった自己肯定感が加速してマイナスにふれていった。その最中で見つけ出した救済の終着点こそが、高3、17歳のときでダイエットだった。不幸にも、ぽっちゃりした分厚い脂肪を蓄えた下半身と一向に引っ込まらない口元としつこい肌荒れは体質だが、ダイエットを頑張ると少しは外見がましになって鏡を見たときの落ち込みが緩和されたのだ。私の代謝は元より低く、太りやすく、食への執着は強く、かなりの努力には見合わない遅いペースでありながらも体重は減っていった。順調な瘦せ方ではなかったが、食べなければなんとか体重は減った。周囲から心配をされても何度鏡で見ても自分はまだ太く醜かった。理想はいつも手に入らなかった。勉強も優れず他人からの信望もない自分が、木偶の坊のような外見をしていれば見るに堪えない悲惨さを感じた。せめて細く華奢であればまだ許される気がしたのだ。そんな自分がいくらしんどくても、せめてものの自己愛だった。


気づけば、私は摂食障害だった。


やがて愛を知ったが裏切られ、大学に入学し再び試験漬けの重圧と課された負荷に苦しんでいる。大好きだった人との子供も中絶した。年に1回のペースで3度違う病気に罹り入院した。私の豊かな感受性は負に侵されていった。その浮き沈みに合わせて摂食障害は寛解と悪化を私の人生と共にしてきた。拒食、過食、嘔吐、全て私が現実から逃げる手段だった。アルコールと煙草は嫌いだった。結局、悲しいことに食べ物と外見と音楽以外に安らぎなど今に至るまでほとんどなかった。何年も毎日死んだように眠り、死んだように大学に通い、死んだように泣いた。食事は刹那的な快楽で、直後から翌日もずっと深い後悔を伴う自傷行為だった。特に翌日の浮腫んだ自分の大きな体が嫌いだった。痩せた自分が好きだったし他人からも愛された。拒食期の自分が好きで、過食期の自分は大嫌いだ。体重で言えば20㎏増減した。ああ、痩せたい。何もかもがうまくいかないからこそ、外見だけは努力で少しでも改善して納得いくものであって欲しい。一方で抑圧された生理的な欲求と血糖値を飼いならすことは生物として不可能だった。やがて必ず、遅かれ早かれ反動が来る。苦しいし、本当に悔しいが宿命のようだ。この数年間もまともな食事は摂っておらず、常に極端な食事だけだったのでまともな食事も食事量も今更戻れないのだ。他人と食事には行きたくないし、間違っているなんてわざわざ指摘を受ける必要もない。食べているときの自分は酷く醜く恐ろしい。この世の中は美味しい食べ物が溢れていて、目にしたくなくても快楽を想起させる食べ物の情報は飛び込んでくる。過剰な栄養素が経済によって消費されようと生み出されている。気にしたくなくても鏡とカメラに映し出される外見は常にコンプレックスを抱えさせ、周囲の他人はみな細く痩せていて羨ましい。私も成績が優れ、痩せていて美しかったらどんなに良かったことだろう。私の手の届かない憧れたちはそれらが才能であることの自覚もなく、享受している。持たざる者である私は歯ぎしりしながら自ら内側にもどかしい思いを秘めて膨らませては押し潰される。私はただ単になりたい自分になりたかったのに、その理想像は虚像で永遠に手は届かなかった。100万以上を歯列矯正に溶かしているので嘔吐だけはやめたが、それは些細なことに過ぎない(嘔吐は苦しく、また顔が浮腫み、便器に顔を向ける嫌悪感と時間を気にしなければならない余裕のなさも辞めた理由だがもちろん吸収は悲しいことにどんどん私を太らせた)。私はただ食と縁を切り、痩せた自分を獲得し、無事に単位を取得できたら幸せになれる。痩せて理想の自分になれたら、もう長年の希死念慮も消えることだろう。そして人から愛されるだろう。叶わないのなら露のようにこの世から私を消えさせて欲しい。


摂食障害は、私の人生らしい。


痩せたい。


痩せてやる。


だから、いつかみんな私を愛してね。


誰にも言えない一生の秘密。






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