現代ポップスとシティポップをブレを基準に考えてみる。
こんばんは。
信楽の長くて厳しい冬を耐えている古谷です。
今回は、現代のポップス音楽とシティポップを比較しながら、その奥に存在しているブレについて考えていきたいと思います。
発信者と受け取り手でブレのない表現。
現代というと少し大袈裟ですが、最近のメディアやマーケティング施策、音楽のメッセージ性など、発信者とその受け取り手の感じ方のブレを極力なくそうとしたようなものがよくみられるなと感じます。
音楽を例にとってお話しを進めていきたいと思います。
2019年頃以降のポップス音楽では、より直接的な歌詞や固有名詞が多数登場し、発信者と受け取り手の思い描く情景が非常に近しいことが多いのではないかと感じます。
最近聞いて驚いた話があって、高校生あたりの年代の人たちが”昔の歌のイメージ”と聞いて真っ先に思い浮かべるのが"歌詞に英語が入っている歌。"だというのを聞いたことがあります。確かに、JPOPのヒットチャートを聞いていると、歌詞に英語が入っている歌が本当に少ないことに驚きました。
私は現在27歳で、2000年代前半に小学校時代を過ごしたわけですが、その時代のポップス音楽を聞いてみると、日英語混じりの曲がほとんどでこんなにも違うものかと驚きました。
日本語話者として、発信者と受け取り手のブレをなくしていく動きの中で、自然と英語の歌詞は少なくなっていったのかもしれません。
シティポップに存在しているブレ。
そんなことを思いながら昔のポップス音楽、特に1970年代〜80年代のシティポップを聞いていて、歌詞の抽象度の高さと全体を通して廃退的な空気感の存在が印象に残ります。
東京を中心に豊かになっていき、バブル経済へ突入しつつある時代にあって、その当事者たちである東京で暮らす人たちによって作られた音楽、シティポップには、キラキラとした東京の生活の表と裏両方がリアルに表現されていて、それをある種の憧れを持って聴いていたリスナー像が思い浮かびます。
ここには、現代のポップスにはない、発信者と受け取り手の距離の遠さがあるように感じます。この距離の遠さが、感じとり方のブレを生じさせ、そのブレが憧れに繋がっているのではないかなと思います。
HIPHOPでも似たような構造が確認でき、Flex(見せびらかし)というカルチャーが存在しています。
高級車やブランドものの服を見せびらかす(Flexする)ことで、聞き手との距離を示し、憧れの情を抱かせるというものです。
このブレがほぼ存在しない現代のポップスシーンと比較して聞いてみると、とても興味深いです。
ブレを感じることの大切さ。
そんなシティポップなど、ブレのあるものを聴いたり見たりしている時、"自らが積極的にその世界に入り込もうとしている"ことに気づきます。
この歌詞の真意ってこんなのじゃないか?この人の歌っている世界ってこんな世界なのではないか?と、能動的に感じようとしている自分がいます。
そうしている内に没入していて、長時間アーティストの枠を超えてシティポップの世界に浸っているような視聴体験をしているなと思います。
対照的に、現代のポップスを聞いていて思うのは"最大限受け取ろうとする"ということです。ストレートに情景や真意が伝わってくるからこそ、全てこぼすこと無く受け取りたくなるように思います。
だからか、長い時間聞き続けるというより、2,3曲を集中して聞くというような聞き方になっているケースが多くあります。
そして面白いのは、現代のポップスについて友人と話をしている時はほぼ統一の見解が出るのに対し、シティポップは見解に非常にブレがある点です。
この見解のブレを話し合う、取り留めもない時間がたまらなく楽しいなと思います。
ブレを言い換えると、楽しみの余白とも取れるかもしれません。
民藝運動を提唱した柳宗悦も、知ることよりも感じて、それを共有することが何よりも大切だと話しています。
様々な事を感じられる余白を持ったようなものと、そしてそれを共有できる仲間に囲まれることの大切さを感じました。
私がデザインを担当しているliloは、プロダクトを通じて日々に余白を感じてただきたいという思いが込められておます。
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