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希望の街のおまじない屋 第五話

レインボウ・ベーカリー再開

 トイデル大通りの一角から、いい香りがしてきます。パンを焼く、香ばしい香りです。足を止めて見ると、補修された看板に『レインボウ・ベーカリー』という文字が読めます。それと、小さな札に、こんな風に書いてありました。『ミミルのおまじない屋』

 扉を開けてみると、優しそうなおじさんと、おしゃまそうな女の子が。
 ミミルのなりは、こざっぱりとしたものに変わっていました。エリーゼちゃんのお下がりで適当なものがあったのです。エリーゼちゃんよりも少しミミルは発育が遅れているようでした。

 そんなレインボウ・ベーカリーに、ちょっとくたびれた感じの、年配の女の人がやってきました。ちょっとびくびくしながら、店の中の様子を見回します。

「いらっしゃいだわ」
 聞き慣れない声がしたものですから、その人はちょっとびっくりしました。
「いらっしゃい。おや、スースの奥さん!」
 続いて懐かしい声が聞こえて、スースの奥さんと呼ばれたその人は、ほっとした様子になりました。

「まあ、トモリさん。お久しぶりです」
「こちらこそ、お久しぶりです。この街に戻っていらしたんですか」
「ええ、昨日の夜に。良かったわ、またお会い出来まして。お元気そうで何よりですわ」
「奥さんこそ、お元気そうで」
 トモリさんはそう言いましたが、スースの奥さんは、前に見たときよりも痩せていました。

「やっと戦争が終わりましたからね」
 喜ばしいことを言っているはずなのに、スースの奥さんは少し悲しそうな調子でした。

「奥さんとはもうお会い出来ないかと思っていましたよ」
「ええ、そのつもりもありましたけど。でも、もし息子が戻って来たらと思いまして」

 スースの奥さんの息子さんは、戦争が始まった頃に前線に行って、消息が不明なのです。旦那さんは、トモリさんの店の隣で靴屋をやっていましたけど、息子の帰りを待ち侘びたまま、戦争中に亡くなりました。一人になった奥さんは、遠くの親戚を頼って疎開していたのでした。

「戻ってきますよ、きっと」
「ありがとう。でも、もう受け入れていますわ」
 スースの奥さんは、あまりその話題に触れられたくないようで、話題を変えました。
「トモリさんは、ここでずっと店を開いてらしたんですか?」

「いえ、戦争中はやめていたときもあったんですけど、最近ね。また復活したんです」
「それは良かったわ。またここのパンが食べられるのね」
 スースの奥さんはささやかな微笑みを浮かべました。

「えっと、この子は……?」
 と、奥さんは、トモリさんの影に隠れてこちらの様子を伺っていた、小さな女の子に気を止めました。さっきからずっと気になっていたのです。

「ああ、ご紹介しますよ。ここに入ってくるときに気付きませんでしたか、看板がもう一つ出ているのを?」
「看板?」
 と、首を傾げてドアの外を見に行こうとしたスースの奥さんを制して、トモリさんは言いました。

「いえ、結構です。おまじない屋と書いてあるんです。それで、この子がおまじない屋をやっている、ミミルです。ミミル、こちらはスースの奥さん。お隣の靴屋の奥さんなんだ。今まで遠くに行ってらして、昨日戻って来られたんだよ」

「ミミルよ」
 ミミルは歳に似合わず、うやうやしくお辞儀をしました。
「こりゃ、どうも。スースです」
 はずみでスースの奥さんも、うやうやしくお辞儀をせざるを得ませんでした。
「この子はトモリさんの親戚の子か何かですか?」

「いいえ、ミミルは孤児なんです。噴水の北の方に住んでいたんですけど、戦争で焼け出されて家を失ってしまったんです」

「あら、そうでしたの。お小さいのにかわいそうに」スースの奥さんはミミルに申し訳なさそうに言いました。「じゃあ、トモリさんが引き取られて?」

「いえ、引き取るというほど、そんな大袈裟なものではありませんけど。ちょうど二階が空いていたものですから」
 と、トモリさんは少し寂しさを隠すように言いました。

「実はね、奥さん。僕も店を畳もうと思っていたんですよ」
「まあ、そうでしたの。それじゃ、やっぱりこの辺りも大変でしたのね」

「建物はなんとか大丈夫だったんですけど、街の人たちもほとんどいなくなってしまって」とトモリさんは、スースの奥さんに気を使わせまいとして、次を続けました。「もう続けていく希望を失っていたんです。でも、そんなときにね、この街でも新しい店がオープンしたんですよ」

「新しいお店?」
「ええ、パン屋の二階にね。おまじない屋です」
「まあ」
 とスースの奥さんはミミルをじっと見ました。ミミルはちょっと恥ずかしくなって、トモリさんの足の後ろに隠れました。

「僕がおまじない屋のお客さん第一号なんだよね、ミミル?」
 とトモリさんは言いました。
「そうよ」
 とミミルは恥ずかしそうに答えました。
「君のおまじないはよく効くんだよね?」
「そうよ」

「奥さんも、おまじないがご入用のときには二階にどうぞ。お代はパンを買っていただければいりませんから」
 と、トモリさんはスースの奥さんに向かってニコッと笑いました。

「おまじない、ねえ……?」
 スースの奥さんは、あまりそういうものを信じないタチでした。おまじないだとか迷信だとかいったものは、眉唾物だと思っている人でした。

 もし、おまじないなんてものが本当に効くのであれば、息子が帰って来るおまじないが知りたいものだと思いました。

 でも、それを口に出しはしませんでした。トモリさんはこの子の面倒を見ることになって、おままごとの相手をしてあげているのだ、と思いました。

「でも、ミミルが来てから、僕はパン屋を続けようと思ったのは本当ですよ」
「そうですか」と言ったスースの奥さんの脳裏に浮かんでいたのは、かつてここにいた人たち、トモリさんの奥さんと娘さんのことでした。奥さんは、娘さんの姿をミミルに重ね合わせました。「それは良かったですわね」

「それより奥さん、今日はパンを買いに来たんじゃないですか」
「ちょっと寄ってみただけのつもりでしたけど、そうね、ついでに一ついただいていきましょう」
「食パンでいいですか。今はまだ材料が揃わなくて、食パンしかないんですけど」
「ここは食パンが一番おいしいわ」

「きっと、以前のものと味が違っていますよ」
「そんなことありませんわよ。トモリさんほどのパン焼き職人でしたら、少々材料が足らなくったって、きっと素敵に焼き上げられますわ」
「いえ、材料が増えたんですよ。ミミルがおまじないを入れてくれるんです」

 トモリさんはニコニコしながらパンを包みました。スースの奥さんは、まさかミミルが変なものを入れたのではないでしょうね、と思いました。

「ミミル、パンがおいしく焼けるおまじないは何だったかな」
「おいしい、おいしい、だわ」
「そう、おいしい、おいしい。パンを焼くときにおまじないをかけるんです。おいしい、おいしいって」
「あら、そうでしたの」
 と、スースの奥さんは安心しました。

「それからミミル、食べるときのおまじないは何だったかな」
「忘れちゃったの?」
「奥さんに教えてあげてほしいんだ。ごはんをおいしく食べれるようになるおまじない」
「いただきます、だわよ」
「そうだね、いただきますだ。奥さんも食べるときに、いただきますって言ってください」

 スースの奥さんは、やっぱりトモリさんは小さな女の子のおままごとに付き合ってやっているのだわ、と思いました。この子は家を焼け出されてかわいそうな子なのだ。一つ近所のよしみで私も付き合ってやるかと思いました。

「私はてっきり、おまじないって言うとアブラカタブラ」
 スースの奥さんは、ふざけておとぎ話に出てくる悪い魔女の真似をしました。
「だいじょうぶ、カエルの目玉なんか入っていませんよ」
 と、トモリさんはいたずらっぽく笑いしました。

「それもおまじないだわ」
 と、ミミルがすかさず言いました。
「そうだね。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ?」
 と、奥さんも声に出して言いました。

「そうですよ、奥さん。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 奥さんはトモリさんの後に続けて言いました。すると何だか、わけもなく本当に大丈夫なような気がしてきました。

「その調子で奥さんも言ってみてくださいよ。今度は、ステキ、ステキ」
「それは何ですの?」
「これもおまじないですよ。今、ミミルにおまじないを教わっているんです。ほら、ステキ、ステキ」
「ステキ、ステキ?」
 奥さんは言われるがままに口を動かしました。トモリさんの後に続けておまじないをします。

「おいしい、おいしい」
「おいしい、おいしい」
「いただきます」
「いただきます」

「ステキ、おいしい、いただきます」
「ステキ、おいしい、いただきます。あら、不思議ね。本当においしく思えて来たわ。いえ、トモリさんのパンがおいしいっていうことは、元から重々承知しておりますのよ。でもね、しばらくおいしい食事をしていなかったものですから。昔を思い出したみたい」

「良かったら、一緒にお茶して行きませんか?店を開けていたって、まだお客さんなんてほとんど来ませんし」
「そうねえ。家で一人で食べたって、しょうがないわね」
 トモリさんは、奥さんも交えて三人でお茶をすることにしました。

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