祈りの日記(浅野浩二の小説)
父と母は私が小学生の頃、離婚して、母は、離婚するや、すぐに、ある男の人と結婚しました。その男の人と母は、以前から付き合っていたのが離婚の理由の一つらしいのです。それ以外にも、色々な理由があるらしいのですが、私には分かりません。私は母親に引き取られました。
小学二年生の時、つらい事が起こりました。ある日の放課後、同級生の男の子達が、掃除当番で残っていた私をつかまえて、「服を脱げ」と言ってきたのです。私は、彼らが怖くて、逆らったら、いじめられそうに思って、仕方なく服を脱ぎました。下着も脱いで裸になった時には怖くて泣いてしまいました。男の子達は泣いている私の裸をしげしげと眺めました。「先生に言ったら仕返しするからな」と言って、男の子達は去って行きました。
元々、内気な性格のため、友達が出来なく、私はいつも一人でした。義父は、初め、私に優しくしてくれました。内気な私もだんだん、義父に心を開けるようになって、本当の、お義父さん、と思えるようになりました。私は義父を、「お父さん」と呼ぶようになりました。しかし二度目の悲しい事が、私が中学一年生の時に起こりました。ある晩、布団の中で、何かが私の体を触っているのに気づいて、私は目を覚ましました。布団の中で私を弄んでいる手に気づいて、私は目を覚ましました。義父だったのです。私は、「やめて」と言えない内気な性格で、また、その後、義父との仲が悪くなるのを怖れて、悲しい思いで黙っていました。義父は私の体をしばし弄んでから、そっと部屋を出て行きました。翌朝、義父は、私が気づいていないものだと思ったのでしょう、何ともない明るい表情で話しかけてきました。私はそれまで部屋に鍵をかけていませんでしたが、その日から、部屋に鍵をかけるようになりました。
私は、人間、とくに男の人、というものが怖くなってしまいました。街を歩いていても男の人が不潔に見えて耐えられないほどになりました。どうにも人間の世界が怖くなって、ある時、私は教会に行ってみました。牧師先生は優しい性格の人でした。
礼拝の後、牧師先生に、私の悩みを話すと、牧師先生は私の話を黙って聞いて下さり、温かい言葉をかけてくれました。聖書が私の心の支えになりました。
それ以来、私は日曜日には、かかさず教会に行くようになりました。私は毎晩、聖書を枕元に置いて寝るようになりました。
元々、友達との付き合いが苦手で、趣味もなく、やること、といえば勉強だけでした。テストでいい点をとると先生に誉められます。それが嬉しくて私は一心に勉強しました。そのため、成績は、どんどん上がっていきました。模擬試験では県下で一番の進学校に入れるほどの成績になりました。私も、今の学校で、生きる目的も見出せず、漫然と勉強しているより、というより、勉強しか取柄のない私ですから、本格的に勉強してみようと思い、高校は県下で一番の進学校を受験しました。そして無事、入ることが出来ました。幸い義父は私が高校へ入った年に、大阪に転勤になりました。
こうして高校での新しい学校生活が始まりました。最初のクラスの時間。入学した時の成績が一番の岡田弓男さんという人がクラス委員長になりました。
「岡田弓男君。君が入学試験で一番の成績だ。だから君がクラス委員長になってはどうかね」
先生が言うと、
「はい。わかりました」
と弓男さんは立ち上がって答えました。
私は弓男さんの優しそうな澄んだ瞳を見た時、思わず胸の高鳴りをおぼえました。こんな気持ちは生まれて初めてでした。なにか、弓男さんのような頼れる人が、お兄さんだったら、どんなに幸せだろうか、などと私は思いました。
上級生達に、さかんに色々なクラブの勧誘されました。でも私は、運動も苦手で、趣味もなく、中学でも部活には入っていませんでした。弓男さんは文芸部に入りました。文芸部には誰も入っていなかったため、弓男さんが一年生で文芸部の主将になりました。私は弓男さんと何かつながりを持ちたくて、文芸部に入りたいと思いましたが、恥ずかしくて、とても言えませんでした。
夜、寝巻きに着替えて床についてスタンドの明かりでしばし物思いに耽るのが子供の頃からの習慣でした。そして繰り返し読んだ好きな小説を読む事が程よい眠りへの誘いでした。しかし、この頃の私はそうではなくなりました。スタンドの明かりを消すと、徐々に、やがてくっきりとある輪郭がはっきりと現れてきます。それは優しくて、頼りがいのある弓男さんの笑顔です。
ある数学の授業の時です。先生が黒板に問題を書いて、今まで解けた者はいない難問と言って、誰か解る者はいないか、と言いましたが、誰も手を上げません。
「今までの知識の応用で、ちょっと考えれば解るぞ」
「弓男。どうだ。お前もわからないか」
先生に言われても弓男さんは黒板の前に行き、しばし考え込んでいました。
弓男さんは、ある解法で問題を解いていこうとしましたが、だめでした。その時です。弓男さんが途中まで書いた解法がヒントになって、きれいな正解をくっきりと、私は見つけました。私は知らぬうちに挙手していました。控えめで、問題が分かっていても挙手しない私ですが、そうしないではいられない、強い衝動に私は突き動かされていました。弓男さんにもわからない問題。それを自分だけがわかっている。それをそのままにしてしまう事が、どうしても出来ませんでした。
「ほほう」
と、先生の驚きのまなざしの中、私はつかつかと黒板の前へ行き、無言で解答を書き、何もなかったかのように机に戻りました。
「うん。正解だ」
先生は感心したように言いました。
文芸部では、いつも部室を開けて、貸し出しノートに記入すれば誰でも本を借りていいことになっていました。
ある時、私は弓男さんがいない時に、そっと文芸部の部室に行ってみました。本がたくさん書棚に収まっています。私は書棚のある本を一冊とってみました。つい文章がぐいぐいと私を引っ張って、私は夢中で項をめくっていました。のめりこむと言うのはこういうのを言うのでしょう。その時、急にドアが勢いよく開きました。弓男さんでした。私は文芸部員でもないのに部屋にいることに後ろめたさを感じ、そっと本を閉じました。彼は屈託のない表情で、私を一瞥しました。
「はは。君か。この前の数学は、驚いたよ。天狗の鼻をへし折られたよ」
私は真っ赤になって俯きました。弓男さんは椅子に座ると屈託の無いで言いました。
「君。部は」
「いえ。まだどこにも・・・」
「よかったら文芸部に入らない」
「で、でも・・・」
「でも、何だい」
「わ、私、小説なんて書けません」
私は文芸部に入ったら、小説のような作品を書かなくてはならず、私にはその才能が無い為、入りたくても入れないと思っていました。
「ははは。そんな固く考える事なんかないよ。エッセイでも評論でもいい。日記でもいい。自分の思っている事でいいんだ。部誌を作ろうと思うんだが、なかなか原稿が集まらなくてね。部に入るのがイヤなら、それでもいいけど、なんか書いてくれたら助かるよ」
困惑している私に彼は語を次ぎました。
「君。本を読むのは好き?」
「ええ」
「じゃあ、好きな作品の感想文でもいいよ。まあ、固く考えないで」
弓男さんは優しく言ってくれました。
「僕も今、作品を書こうと思っているんだけど、なかなか着想がわかなくてね」
そう言って彼は照れ笑いしました。
「はい。合鍵。部室には自由に入っていいから。読みたい本は自由に持ち出して読んで」
彼は私に部室の合鍵を渡してくれました。弓男さんの好意に甘えて、私は、読みかけの本を借りて部室を出ました。
私はだんだん足繁く文芸部の部室に通うようになりました。本を返しに行く時、私の心はもしかすると弓男さんに会えるかもしれない期待に踊っていました。
本を読んでいるうちに私も何か作品を書いてみたいと思うようになりました。私は、日曜の教会の風景を素直に書いてみました。書いているうちに気分が乗ってきて、ちょっと小説風の作品にして何度も手直ししてみました。自分でも満足できる小品が出来ました。弓男さんに見せると彼はそれを大変誉めてくれました。
ある時、部室へ行くと、作品もそろったので、弓男さんが部誌作りをしているところでした。私は部誌のつくり方は全くわかりません。弓男さんは中学の時から文芸部で、本の編集や、本つくりの事を知っています。弓男さんは私を見ると、
「ちょうどよかった。手伝って」
と言って、私にやり方を教えてくれました。両面コピーされた原稿を二つに折って、端を糊つけしていきます。目次を見ると、私の作品が、最初にあります。私を立ててくれようという弓男さんの心使いが、嬉しくもありましたが、恥ずかしくもありました。こうして弓男さんと協力して一つのものを作っているということが言いようもなく嬉しく、次回も文集を作るときは、自分の作品が書けなくても、本つくりをぜひ手伝おうと思いました。
「君。日曜日には毎週、教会に行っているの?」
弓男さんが聞きました。
「ええ」
私は、小声で答えました。
「じゃあ、今週の日曜日に君の行っている教会に僕も行ってみよう」
私は何だか、恥ずかしくなって俯きました。
日曜日になりました。教会へ行くと弓男さんが来ていました。弓男さんは私の隣に座りました。なにか私が弓男さんを無理矢理、教会に誘ったような気がして、恥ずかしくて緊張しっぱなしでした。礼拝がおわると二人で近くの公園を少し歩きました。ベンチに座ると私は、何を話していいのかわからず緊張しました。私は迷いましたが、思い切って弓男さんに、つらい経験を話しました。弓男さんは黙って聞いてくれました。
それ以来、弓男さんは日曜日には教会に来るようになりました。
ある日曜日の礼拝の後、弓男さんは私の手を引いて先導してくれました。路傍に咲く花を一輪とって私の髪を掻き揚げて、耳に挿してくれました。照れくさくて私は真っ赤になりました。私達は公園のベンチに腰掛けました。
「あの。サンドイッチを作って持ってきました」
私は、カバンからサンドイッチを取り出しました。
「ありがとう」
彼は微笑しました。
私はベンチの上にサンドイッチを置きました。彼はチーズとトマトのサンドイッチを取りました。私は極度に恥かしがり屋なため、食べるところを見られのが恥ずかしくて、自分の作ったサンドイッチを一つ、掴んだままどうする事も出来ずにしばしもてあましていました。それを察するかのように彼が二つ目のサンドイッチを取ったので、私は俯いて蚕のようにモソモソと食べました。サンドイッチを食べおわると彼は黙って私の手をとって芝に連れて行きました。公園には誰もいませんでした。
彼は私をそっと草の上に倒しました。私の心臓は激しくドキドキしてきました。彼はそっと私を抱擁しました。私はつとめて人形のようにされるがままに身を任せていました。彼は私の髪を優しく撫でながら、無言の微笑で私をじっと見詰めています。私は恥ずかしくて頬を赤らめて目を瞑りました。しばし、鼻腔に入ってくる草いきれだけの時間がたちました。そっと口唇に柔らかいものが触れているのを感じました。それはあまりにもかすかな接触でした。彼はそっと私の手をとって体を起こしました。そして軽く背中についた芝を払い落としてくれました。私は恥ずかしくて膝をキチンとそろえ正座しました。彼は片手で私の手をとって片手でそっと私の肩を引き寄せてくれました。私は、甘えるように彼にもたれかかれました。
平成22年11月17日(水)擱筆