見出し画像

春になると母は

「最近のツバメは小さくなったねぇ」とこぼす。

母は70まで看護師をして、最後は院長に慰留されながら身を引いた。もう危ないわ、と。

瀬戸内の海辺にある旧家に生まれた母は
3歳になるといきなり祖母に波止場の突端から
海に放り込まれて溺れながら泳ぎを体得した。

祖父は終戦直前に斬り込み隊で戦死しており
母は自分の父というものを知らない。
戦後、なぜか二体帰ってきた遺骨をおもちゃに
潮が引いた浜辺で遊んだという。

祖母は苛烈な人で、女手一つで女児ばかりを5人育て上げた。終戦直前まで、大陸で結構な暮らしをしていた祖母は日本に引き揚げる列車に乗り遅れ
その列車がその後何者かに爆破されたので
当時お腹にいた母は、祖母がもし列車に間に合っていたらこの世にいない。

母は大学病院の看護学校を出て小児病棟で働いた。この頃、ガン臭が嗅げるようになったという。小児病棟時代はツラい記憶らしく、母は今でもあまり語ろうとしない。
小児ガンで亡くなった子を沢山看たという。

大阪の団地で暮らしていた頃
僕の友達のこーちゃんのお父さんがガンになって
母が働く病院に入院した。早々に手術が決まり
母は手術室のオペ看を担当する事になった。
こーちゃんのお父さんが亡くなった夕方
母は古い家具調ステレオで海援隊の「贈る言葉」を何度も聴いては泣いた。
僕は(お母さんが泣くのも大切な事だ)と思って
何度も何度もレコードをかけた。

母には霊感があるのだが、霊は一切信じない。
一度仕事中に唐突に涙が溢れた事があり、同時刻に叔母が亡くなっていたという。

キャリアの晩年は診療所で勤めて、近所から婦長さんと呼ばれて、何かあれば家の呼び鈴がなり、どうしたら良いの?と相談を受け「私は医者じゃないからね」と困りながら助言をし、学校の健診には先生と一緒に、生徒に注射しにやってきた。
僕が倒れた時は、自宅で点滴をしてくれた。

家族が病院勤めのせいで、自宅の文房具に困ることはなかった。全ての文房具に(パキシル)など薬物の名前があるのはご愛嬌だ。

「最近のツバメは小さくなったねぇ」
春になるたびに、母がこぼす。

母が手料理を嗜んだのは引退してからだ。
彼女が実は料理下手であることを知ったのも引退してからだ。私は飯炊き女じゃありません!と
父に離婚を切り出した時の迫力はなかなかであった。その後、父とは喧嘩しながらやっている。

今夏、大きくなった亀を逃してやる、という。
孫を連れて、亀を逃しにゆこうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?