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今だからこそ、この世界にいるために【雑感】わたしのロシア文化メモ

ロシアという地域の文化の話をしたい。

最近の国際ニュースでは、ウクライナ戦争への不安視に続き、イスラエル・パレスチナ紛争も毎日語られるように。

世界情勢は大規模戦争への秒読みだという声が、Xではしばしば見られるようになった。

……ところで、私は政治経済について元々かなり無知だ。
若者を満喫していた大学時代は、「今の日本の首相って誰だっけ?」と友達に訊くレベルでマイペースだった。友達も引いていた。

首相を知らない間、私が何をしていたかというと、ネットで音楽を聴いたり、イラストを描いたり、一人で小説を読んだりしていた。
気質的に、いわゆる、「役に立たないものに目が行くタイプ」なのだ。

わざとそうしているのではない。頑張っても、現代政治の教科書は頭に入らなかった。

ただ、2022年に勃興したロシア・ウクライナ戦争への意識が、少しだけ私を変えた。

私の専攻はロシア文学。
ホームステイなら現地にも行った。

詳しくは以前の記事を読んでもらうとよい。
おそらく、同世代の若い子たちの大多数よりも、私にとってのそれは「隣の戦争」意識が強かった。

と、いうわけで、本記事は大学でロシアを学んでいた人間が、自分自身が世界に居場所を感じるために、ぼそぼそ呟く直接はニュース理解の役に立たないロシア知識コラム記事です。

周りの何人かに「ロシアのことって(政治関係なくても)知りたい?」と聞いてみたら、「(今だからこそ)知りたい」と返してもらった。
そこであくまで一般人目線で、ゆるゆる語る記事をつくりたいと思いnoteに。若者目線で読みやすくなるとうれしい。

直接は役に立たないかもしれないが、ロシア文化圏を身近に感じるかもしれない。
逆にそれぞれ比較して「全然違う」と分かるかもしれない。

文化関連でも政経でも、「それならこれも……」というコメントがあったら、どんどんいただけるとありがたいです。


0. 文学部って何するの

と、はじめようとしたが、まず「文学部って何してるの」という人も少なくないんじゃないか。
私は周りから「古文書読んだり……?」と言われたこともある。
それもないことはないのだろうが……(歴史学が文学部下にある場所だとそうだろうか……?)、私は主に19世紀ロシアの小説を読解していた。

ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイといったいわゆるゴツくて暗そうな作家が連なる時期である。
名前は聞いたことある、という人が多いのではないだろうか。

日本の作家──夏目漱石二葉亭四迷といった古典作家から、現代なら伊坂幸太郎といった小説家まで──は、伝統的にロシアの小説がかなり好きだ。
二葉亭四迷はツルゲーネフの『片恋』で「あたし、死んでもいいわ」と訳した話がたまに話題になる。
(「夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳した。一方二葉亭四迷は……」というフレーズで聞いたことがあるだろうか?)
伊坂幸太郎は『グラスホッパー』の鯨にドストエフスキーの『罪と罰』を読ませている。
読み手からしてもなんか様になるのである。

私も例に漏れず、ドストエフスキーを読みたくてロシア文学科に行った。
高校生のときに熱く好きだった女性作家がドストエフスキーファンだったことを知っての短絡的な進学だ。

といっても、ドストエフスキーはふつうに面白い
本記事を書いている2023/10/12~13、ちょうど「若い人はドストエフスキーを読むべきか」という話題がXで流行った。
(発端の方の発言は「年齢に縛られた読書を薦めるべきでない」のニュアンスだった。が、広がるにつれてユーザー間では「自分と十代の読書の充実度」というような体験談が多くなっていった。)

私は読書については、特に強調することもなく、「好きなときに好きな動機で好きなものを読めばいい」と思う。
が、単純に17歳の私は初めて読む『罪と罰』にメチャクチャハマった

冒頭から鬱屈した雰囲気を漂わせる文体。
学力は優秀だが、承認感をこじらせて屈折してしまった若者の心理。
大都市に押しつぶされそうなせせこましい人間たちの暮らし──
その中で起こる殺人事件のドラマに、知らない国を舞台としたサスペンスとして、シンプルに心を掴まれてしまったのだ

今読んでもこんなに面白いものが古典と言われていて、研究できる?
ならやりたい!
動機はそれだけ。
私はロシア語を勉強し、背景にある文化の常識を勉強して、頑張って原語でドストエフスキーを読んだ。

文学部って、個人的な体験で言うと、そういう場所である。

1. 日本人があんまり知らないロシア文学

ところで「日本の作家は、伝統的にロシアの小説がかなり好き」と言ったが、ほかの地域での人気はどうなのだろうか?

実は、ロシアの小説はロシア現地では、日本での有名さほど文学的価値が高くない
もちろん古典としてみんな名前は知っているが、ロシアの人々がより国民共通文化として愛しがちなのは、小説家よりも詩人である。

最も「国民作家」と呼べるのは、アレクサンドル・プーシキン
代表作は『エヴゲーニイ・オネーギン』……と言っても、日本人にはあまりピンとこないだろう。
それもそのはず、彼は生涯ほとんどの作品を詩の形で書いているのである。
日本の有名な和歌や俳句を、翻訳して外国語の国に届けようと思っても、ニュアンスや文字数をふまえて、全てを再現するのは難しいのと同じ。
詩は、散文(小説、随筆など)に比べて、翻訳を通すと魅力が伝わりづらいのである。

でも、だからこそ詩は、元の言葉では美しさを発揮する
ロシアの学校の授業では、プーシキンの詩を暗唱しがちだ。
百人一首や谷川俊太郎など、日本人でも暗記には心当たりがあるだろう。
あれらがロシアの場合、「国民作家といえばプーシキン」と、一手に愛情が集まっているイメージだ。
※私は直接ロシアの人とプーシキンの話をしたことがないので、伝聞ベースでイメージとしている。

日本ではマイナーな作家だが、せっかくだから魅力を紹介しよう。
プーシキンのロシア語は、とても平易でわかりやすい。
整っており、お手本のような詩作の言葉づかいとされる。
それもそのはず、ロシア近代語は、プーシキンに取りまとめ、整えられて始まったのだ。
プーシキンは「古語で伝統的に書かれていた詩」の形式を踏まえながら、「庶民が日頃使っているわかりやすい言葉」を文字に起こして、詩を作った。
それにより一気に、ロシアでは口語で詩を作る手法ができたのだ。

「百人一首」と「谷川俊太郎」を例に挙げたが、まさにそんなイメージだろう。
古来のことばの美しさと、老若男女に分かる簡単な読み味が両立している作家というわけだ。
ロシア人がプーシキンを特別視するニュアンスも、これでおわかりいただけるだろう。

2. 芸術の国・ロシア

そもそも、ここからは個人の感覚も大きくなるが、ロシアは非常に芸術文化の価値が高い国だ。

ロシアでは、バレエや劇が庶民にも身近だ。
今でも街中を散歩すれば、あちこちに「映画館」ではなく「(演劇の)劇場」を示す「シアター」=「テアートル(театр)」という大小の看板が掛かっている。
たった三十余年前まであったソ連では、国家単位のバレエ英才教育が行われ、十代の子供たちが、国の保護で国立大学に行くためにしのぎを削っていた。
ここには「ロシアの価値は芸術にある」という国民意識が働いている。

音楽ならチャイコフスキー、ラフマニノフなど、有名な作曲家を思い浮かべることもできるのではないだろうか?
現代では、フィギュアスケートロシア女子の強さを見てきた人も多いだろう。
ロシアの芸術は、19世紀後半から20世紀、そして現在にかけて、確かに世界の中で強い影響力を持っていた。

ここには、ロシアがどうしても「西洋諸国からすると、周辺国」だった国の歴史が関係している。
日本の明治維新のように、ある時期、西洋化していない国は「遅れている」とされていて、「西洋に追いつけ追い越せ」が国のスローガンになる時代があった。

ひとつの国としての意識や、生活水準がどうしても当時の西洋列強に追いつかない中、19世紀ロシアでは、前述のプーシキンや、それに続く小説作家たちが出てきた。
ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ。
彼らは西洋の影響を受けつつも、ロシアならではの価値観や、深みを発揮していて、西洋に逆輸入された。そしてフランスやイギリス、ドイツで高く評価され、当時の西洋作家たちに影響を与えた。
ここで、ロシアの文化的リーダーたちは考える。芸術家の自分たちこそがロシアの真価を諸外国にアピールできるのだと

あくまで当時の価値観であり、現代の受容はもっとフラットかもしれない。けれどおそらくロシアにはそれが足跡として残った。
ちなみに私は、物理的に寒く荒野の多い国・ロシアで、彼らが西洋への遅れを感じて焦ったからこそ、魅力的な作品たちができてきたんだと思っている。
言ってしまえばコンプレックスや、内に抱え込んでまだ磨かれてこなかった、莫大なエネルギーが、芸術に一気に反映されて、いわゆるあの「暗く、屈折した」けれど「深い」ロシア文学ができた。

日本の作家がロシア作家を好きなのは、そういうコンプレックス気質や内気な性格が共感を呼び、そこからの爆発のダイナミックさが憧れを呼ぶからだと思っている。あくまでこれは個人の推測だ。

3. 信仰の国・ロシア

ここまで、ロシアが日本の文学に与えてきた身近な影響や、その意外と見えないお国柄の側面をまとめて語ってきた。
でも、私としては、ロシアを語るにはもう一つ欠かせないものがあると思う。そしてそれは日本人にはなかなか共感を呼びにくいとも。

信仰」だ。

ロシアはあつい正教派のキリスト教国である。
カトリックとプロテスタントならともかく、正教会となるとどういう教派だっけ、となる日本の若者は多いのではないだろうか?
なぜなら私がそうだった。

ロシアはロシア正教という、ギリシャの流れを汲みつつ独立した宗教を持っている。
カトリックとプロテスタントより何世紀も前に分派しているから、西洋のキリスト教とは少し味がちがう。
この記事のヘッダー画像のような「タマネギ屋根」を見たことがある人も多いのではないだろうか。

ロシアはとても信仰を大事にする国だ。
それは前項のロシア的アイデンティティともちょっと関わりがある。
ロシアの文学をはじめとした芸術は、深く精神にもぐるものだったから、自然と思考に根付いた信仰に結びつくことが多かった。
東方教会の味が、西洋芸術とは違う個性を文学に与え、そして人の心を深く掘り下げる方法にもなっていた。
深い掘り下げは、どこかで万人を共感させる力を持っている。
ロシアの宗教とは、個性であり、同時に普遍性なのだ。

私の中で、印象深かった経験がある。
三週間のサンクトペテルブルクホームステイをしていたとき、私のホストマザーがこう言ったのだ。
「日曜日は仕事をしちゃいけない日だから、毎週土曜日にボルシチを作り置きして友達と劇を観に行くの」
私はこの言葉の、深い信仰文化に衝撃を受けた。

「日曜日は神さまも休んだ日だから、家事も含めて仕事をしない」という教えは、私はアメリカの児童書である、ローラ・インガルス・ワイルダー『大きな森の小さな家』で知った。
けれど、現代アメリカでは相変わらず最大多数のはずのキリスト教徒でも、あまり多くの人が日曜を完全な休息にあてているイメージはない。現代都市ではベンチャー、フリーランスなど色々な働き方があるし、現実的に一日家事を休めるかは、生活の質次第なところもあるはずだ。

一方、ホストマザーは海外から来たての私に向かって、当たり前のようにさらりと生活に根付いた信仰を知らせた。
そしてそれは、「劇に行く」という芸術文化とも一体になっていた。
あくまで一人の例なので、「当たり前に同じ行動をするロシア以外の人」も、「キリスト教の教えを意識していないロシアの人」もいるだろう。
ただ私個人は、私がロシアの文学や芸術から受け取ってきた信仰心を象徴する風景として、その説明を長いこと覚えているのである。

4. ほかにも色んなロシア

ここまでロシアの文学を中心にした芸術と、信仰文化について、私の経験目線で語ってみた。
まだまだ、美味しいロシア料理の話とか、ドストエフスキーのオタク語りとか、話せることはあるのだが、話題としては一度区切りだろう。


なお、この記事は大学の先生たちに教わったことを思いながら、以下のような参考文献をチラ見して書いた。

川端香男里編『ロシア文学史』(東京大学出版会、1986年)

藤沼貴、水野忠夫、井桁貞義・編著『はじめて学ぶロシア文学史』(ミネルヴァ書房、2003年)

沼野充義、望月哲男、池田嘉郎・編集代表『ロシア文化事典』(丸善出版、2019年)

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b303445.html


オタクの布教だとドストエフスキーの入り口は新潮の『罪と罰』か光文社古典の『白夜』がおすすめだよ。

▼「これ」という鈍重な読み味を知りたい人向け

▼さくりと儚い後味の短編中編から入りたい人向け

結構儚い話書くねんあの人。

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