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雑感記録(84)

【"ビジネス"日本語が書けない】


4月1日から係替えがあって、業務形態もかなり変化した。まだまだ僕には知らないことが多く、勉強しなければならないとは思うのだが、今はそれよりも目の前の仕事をこなすことで精一杯だ。お陰で毎日21時まで残業して何とか乗り切ろうとしている。(フレックス制度導入もこれに拍車を掛けているのだが…)

何より辛いのは僕の新しい直属の上司が多忙を極めており、色々と聞きたいのだけれども聞くに聞けない状態が続いているということだ。助けを求めたいのだが結局独りで進めなければならない。もし時間的に猶予があるものであれば別に問題はない。しかし、期日が決まっているものばかりであるからそんな余裕はない。それなりに調べながらやるが実務とはやはり若干の差異がある。経験則でしか導き出し得ない答えもある。その経験則が僕には皆無だ。

そして、係替えしてからかなり変化したこととしては、かなりの文章を書くようになったことだ。所謂「稟議書」を書く機会が急激に増えた。「何故この会社、あるいは個人事業主に融資を出したいのか」ということをある程度書かなければならない。別に元々文章を書くことは苦ではないから、それ自体はさして問題がない。問題があるとしたら、その一定のフォーマットがある、決まっているというところである。僕にはこれが中々辛い。


昨日も相も変わらず残業していた。稟議書を作成するのは勿論のこと、頂いた資料を基に銀行のフォーマットに落とし込むという作業をしていた。僕は黙々と稟議を書いていたのだが、後ろに上司が立ち「何してるだ?」と覗き込む。僕は「稟議書いてます。」と一言返事した。すると上司が一言。「お前の文章は分かりやすいし上手いんだが、たまに主語が分からなくなる時がある。」と。

ちなみにこの上司は職場の誰しもが認める読書家だ。一度本の話をしたことがあるのだが、読むジャンルは違うとはいえ相当な量を読み込んでいる強者だ。業務に関する圧倒的な知識量の根源は正しくこれだなと。非常に尊敬できる上司の1人である。

僕はこれを言われた時に、正直自分では意識していなかったところだなと気付かされると同時に「そうなのか…?」と一種の微かな苛立ちを感じてしまった。僕の中では上手く書けているつもりだが、他の人からすると少し戸惑いを感じてしまうようなのだ。

最近僕はこの方の記事を読んで非常に感銘を受けた。何というか、僕が求めている姿勢というか、僕にとっても文章を書くということはこういうことだ!と改めて再認識することが出来た。非常に素晴らしい記事である。勝手にこの記録に貼り付けて非常に恐縮ではあるのだが、文章をこうして残している僕にとっても非常に重要なことである。ぜひ一読してもらいたい。

この記事にもあるように、小説や芸術などの文章というものは読者の想定など微塵もしていないことが重要であると僕も思う。そう、こうして書かれている言葉や記録の総体は只のオナニー万歳!なのである。これがたまたま誰かの目に付けばいいし、誰かの為に書いている訳ではない。自己の溜まったものを発露として書いているに過ぎない。

僕はこういう文章に憧れ、そしてその他人のオナニーから自己のオナニーをより有意義なものとすべく読み込んできたに過ぎない。だから、僕は「他人に何かを伝える文章を書く」ということは途轍も無く下手クソだし、とても苦手なことである。即ち「分かる人にだけ分かればいい文章」しか僕には書けない。


僕の職場の場合、稟議書というものは担当者→上司→副支店長→支店長→本部という流れで回覧される。支店長あるいは本部で決済が通れば融資出してOKという流れになる。この流れはどこの企業でも同じだろうが、とにかくこういった人たちにまずは分からせなければならないというところからスタートする。

何も状況を知らない上の人たちに言葉で分からせなければならない。これは一苦労する。もし自分の中だけで完結するのであれば、最悪箇条書きかなんかでも十分事足りるし、もっと言えば言葉の断片だけでも問題はない。自分自身が後で見た時に思い出せることが出来ればの話であるけれども…。

単純に考えて、4人に分からせる文章を書かなければならない。もっとも言ってしまえば、4人が納得するような文章を書かなければいけない。「分からせる」ではない、「納得させる」文章だ。これは僕にとっては骨が折れる作業だ。言葉のバックボーンが人それぞれ違うのだから、どれぐらいの文量でどの情報を取捨選択するのかを予想しながら書かなければならない。相手に対する想像力然り、言葉に対する想像力然り、これには大分苦労する。

例えばこれが言葉で「書く」ということではなく、言葉で「話す」ということであれば大分状況は異なるだろう。「話す」という場合には情報の取捨選択をするのは聞き手側に一任されるので大分楽だ。しかも、経験則から「ああ、何となくこういうことだね」と一定の理解をしてもらうことが出来るからだ。要は言葉以上に汲み取って貰えることがあるからだ。声のトーンや、もし対面していれば身振り手振り、表情などでも分かることもある。

言葉は便利だが不便だ。ここ最近本当に痛感する。何かを相手に伝えるということの困難の一端、いや大半を占めているのはやはり「言葉」以外の何物でもない。稟議書を書いていて学んだ大きなことだ。


加えて、こういった文章は無機質になりがちであり、何だか生きた情報が死んだ情報として伝わるような…。なんだろうな、僕は情報の抜け殻を伝えているようにしか思えてならないのだ。ビジネスで使われる文章は死んでいる。それが最上であり、求められていることなのである。

過去に稟議とはまた異なるが、所謂「店長所見」というものをこれまで何度も書いている。そんな中で1度だけ、「こんな無機質な店長所見、読む気にもなれん。つまらん。」と思い、僕なりにお客から聞いた情報を全部盛り込みストーリー仕立てで書いたことがある。それを上司に見て貰った時、こっぴどく叱られた。「こんなものが所見になるか、アホ!」と言われた。

個人的にはその人の考えやら、心情やらそういった文章を書ければ審査する側にも響くだろうと思って書いた訳だ。これこそ顧客本位な姿勢ではないのか?と思う訳だが、そういった情に訴え掛ける文章はどうやら必要ないらしい。

勿論、こちらはあくまで貸す側の立場であるからあまり恣意的になってはいけないし個人的な感情など抜きにするのは大事なことだ。冷静に貸せるか貸せないかの判断をしなければならないから、顧客の事情なんてどうでもいいのも承知している。しかしだ、それはあまりにも悲しすぎやしないか。情だけで判断をすることは危険極まりないということを承知しているからこそ、敢えてこういう場で情に訴えることを試みても良いのではないのか?と思った。だからこそ「店長所見」でぶちかましてみたのだ。……大失敗に終わったが…。


しばしば、「文学を学んでいた人は文章が上手い」と言われる。僕はこれは大きな間違いなんじゃないかなと思っている。むしろその逆だ。「文学を学んでいた人だからこそ文章が下手クソ」であると思っている。

先程の話に戻る訳だが、小説や芸術の文章なぞは結局書き手による全力オナニーなのである。誰かに読まれるということはもしかしたら意識していたのかもしれないが、「別に読まれなくてもいいや」という感覚も当然あっただろうし、「自分の書きたいことを書ければそれで十分だ」という姿勢であったはずだ。たまたま読者という存在によって祭り上げられてしまっただけの話だ。

畢竟するに、文学というものは書き手自身が満足出来れば十分であるというところが根本にあり、言葉の秩序、文章の秩序を逸脱するからこそ面白いというところに醍醐味がある。そんな文章を学んでいたら当然の如く、社会で求められている言葉なぞとはどんどんかけ離れていき、文章が下手になっていくのは当然の帰結だ。

これまたしかしだ。文学作品を読んで「この人の文章は上手い」「この人の文章は好きだ」と感じることがある。僕も感じることがある。古井由吉なんかを読んでいると痛感する。あんな綺麗な日本語が書ければなあと常々。試しに引用してみよう。1番好きな部分だ。

この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。
独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心した方がよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮りにも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくても、身が身から離れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。

古井由吉「眉雨」『木犀の日 古井由吉自選短編集』
(講談社文芸文庫 1998年)P.113

ちなみにこれは友人に教えて貰った作品なのだが、僕もハマってしまった箇所である。この文章を読んで上手いなとか綺麗だと感じられるのは何故だろうか。単純に語彙力の問題か?はたまた言葉の音の問題か?それとも…。

僕がこの文章に惹かれるのは言葉の音も勿論のこと、どこか通常では描けない言葉が並んでいることにある。仮に僕らの日常生活でいきなりこんなこと言い出したら「やべえ奴だ」と思われてしまうだろう。だが、これは作品世界の話だ。どう思われようが勝手だし、これを読んでどう思うかなんてのは勝手だ。

これ程までに言葉の秩序(というものがあるのかどうかも怪しい所ではあるのだけれども…)を逸脱している所に僕は上手さと面白さを感じられるのだ。こういった所を常に取り込んできた人間だからこそ、言葉の上での逸脱も常に求めてしまうのだ。だから正常な、所謂「ビジネス文章」などというものには1ミリの面白さも感じられない。


はてさて、話が大分変な方向に行ってしまった気がするが、とにかく僕は文章を書くのが苦手だ。とりわけ、ビジネス文章やフォーマットの決まった文章を書くことは苦手だ。こんなものただ当てはめればいいだけで自分で考えることをしなくていいからだ。言葉そのものへの疑念など湧く訳もない。

たぶんだけれども、本を沢山読んでいて社会的に求められている文章が上手な人間というのは一見すると「本読んでるんだ、凄い」となるが、こういった文学を読ませると大抵面白さが分からないんじゃないかなと思われて仕方がない。詩なんか読んだところでその醍醐味が分かるのかね…。

文章を愉しむという観点ではなく、ただ知識を吸収するのみに主眼が置かれているのだろう。無論、それはそれで構わないと思う。ただそこに残るのは知識としての面白さのみで、言葉による面白さなどは存在しないだろう。僕が哲学書を読むのはこういったこともあるからなのだろう。知識も勿論蓄積されるし言葉の面白さも両方味わえるからだ。

誰かに何かを伝える文章も大事だが、こうして自分のために書く文章というのも大事だと思う。分かる人に分かればいい。このスタンスは文章を書くうえで大切にしたい。

最後に上司へのちょっとした反駁を…。

全共闘C だから自然というものはわからないのだよ、全然。
三島    誰が分からん?わからぬというのは君のは日本語で主格が省略さされていて、「いい日本語」なんだけれども、誰がわからぬと言っているの?君がわからぬ?おれがわからん?

三島由紀夫・東大全共闘『美と共同体と東大闘争』
(角川文庫 2000年)P.35

主格が省略されると「いい日本語」らしい。ただ『源氏物語』並みになると難しくなるけれどもね。

よしなに。







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