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雑感記録(193)

【時間に怯える人間】


昨日、僕は古井由吉の『招魂のささやき』というエッセー集の中に収録されている「高速の中で」から時間性ということについてあることないことを書いた。自分で読み返して意味不明だった。

この記録については「僕がカフェで本を読むのが苦手である」ということを古井由吉の『招魂のささやき』に収録されている「高速の中で」というエッセーの「読んだときの私の静かさが、私の時間から零れる」という文章に無理矢理接続したかったというだけである。途中、かなり無理があるようなことも散々書いてしまい、結局書いている途中で自分が書いていることがおかしいことに気づく。しかし、それを修正しようにも上手くいかない。

そこで翌日である今日、簡潔にもう1度纏めてみようと思う。

僕がカフェで読書をすることが苦手なのは、単純に「読んだときの私の静かさが、私の時間から零れる」ということを受け入れられないというだけの話である。結局その「読んだときの私の静かさ」というのも「私の時間」の一部分であって、「私の時間」を構成する部分が「零れる」(欠如してしまう)というのは畢竟するに一般的に言われるところの「無意味/無駄な時間」となってしまう。所謂、「この時間、本当に何してたんだろう…」という虚無感。その時間を挽回しようとあくせく動く。

これは逆のことを考えてみると分かりやすいかもしれない。「読んだときの私の静かさ」を零れないようにする。それはつまり、古井由吉も指摘した通り、「暗記をすること」「諳んじるようにすること」であると思う。もっと平板化して言えば、覚える為に読むということである。それが恐らくだけれども「読んだときの私の静かさ」を零れないようにすることなのだと思う。

この零れてしまった時間にこそ、古井由吉が言うように「人間をたちまち破壊する狂奔が含まれている」のだと思う。僕が思うにだけれども、「零れ」てしまったものは、もう「零れ」てしまっている訳で。それをどう頑張っても戻すことは出来ない。それは地球は常に動いていて、僕等よりも遥かに早く動いているのだから、その「静かさ」など訪れないのである。それを受け入れ、そこから「じゃあもう1回読むか」となることが肝心なのかなと思うのだ。もう1度引用したい。

読んだあとから記憶に留めてその内容を巧みに語る人がいるけれど、私にはどうも、その物覚えの良さが薄気味悪く思える。それだけの重みに内に押入られたら、精神のバランスの力学からいっても、そう達者な口はきけなくなるはずではないか。
 一度は忘れなくては自身の内で育たない。釣った魚を冷蔵庫の中に貯蔵するのとわけが違う。読んでからまた、自分が読んだということと、めぐり合わなくてはならない。それまで往々にして三、四年、いや十年二十年かかってもしかたがない。それはそうなのだ、と私はいまでも思っているが、また少し違ったことを考えることもある。

古井由吉「高速の中で」『招魂のささやき』
(福武書店 1984年)P.49

最終的に話を纏めると以下のようになる。

まず以て、僕がカフェで本を読むことが苦手なのかという問いに対する答え。それは「覚えなければならない」という意識が働いてしまうから。カフェというある種特別な空間に存在している訳なので、「ここで何かを成し得ねば。時間を無駄には出来ない。」と無意識のうちに考えてしまうからである。純粋に作品を愉しむというよりは、覚えることが目的と化した読書になってしまうからである。

この状況は古井由吉が言うところの「読んだときの私の静かさが、私の時間から零れる」というその状況を言ってしまえば認めることが出来ない自分が居たという事である。しかも無意識的に。だから、一所懸命に覚える為に読む必要は全くなくて、むしろ読んで忘れるぐらいが良いのかもしれない。とそんなことを思ったという話である。

昨日書きたかったことはこんなような感じのことである。


それでだ。何かこの文章を書いている時にふと思ったことがある。それは最近の読書の傾向である。僕は仕事柄、高校生や大学生まあ厳密に言えば図書館を相手に仕事をしている訳だ。そうすると高校生や大学生が読む本というのは気になってしまう。しかし、中々聞けるものではない。それは当然である。図書館はこれを読ませたいという本がある訳で、大抵それは僕が好き好んで読むような学術書の類が多い。

僕が知りたいのは、そういったこと関係なしに、今の高校生や大学生が読む本というものはどういったものが多いのだろうかと、例の如くネットサーフィンをする。今では様々なサイトで「大学生にオススメの本〇選」「大学生が読むべき本〇選」という仰々しい見出しが多い。Instagramでもやはりこういった文言で本を紹介している人達も多い。

それを僕は仔細に眺めていき、何というか古井由吉の書いていた方向とは真逆な方面に向かうことを推奨する読書、つまり「読んだときの静かさが、私の時間から零れる」ということを許さない!というような傾向になりつつある。自然の摂理に反する動きを積極的にしているのではないかと思われて仕方がなかったのである。

本のラインアップを見てそれを痛感する。例えばこのサイト。

何かやたらと自己啓発本が多い。まあ、僕は散々書いているので、もう書きたくはないが、やはり危険な香りが漂っている。その自己啓発本が悪いとかそういう問題ではなくて、「時間」というものにこだわり過ぎた読書が横行していることに最近は危機を感じる。先の繰り返しで大変恐縮だが、1回で覚える、無駄にしたくないみたいな読書がある種読み方の主流として台頭してきていることに僕は恐怖を感じる人間である。

自己啓発本も正直、大して文章は難しくないし簡単に読める作品が多い。話は些か脱線するが、実は最近Kindleデビューを果たし、時たま自己啓発本やビジネス書を読むようにした。それは最近の読書傾向を勉強したいという心持から始めたのだが、意外と読めないこともない。色々と読んだりしているのだが、それなりに愉しませて貰っている。色んな意味で。それで読んでいると中々面白い作品もあったりする。一概に自己啓発本が悪いとか言えないかなと最近では思うようになった。……成長したな自分…。

しかし、読みやすすぎるので、どうも読んだ気がしない。何というか文章自体が覚えやすい構造になっている。例えば、ご丁寧に文章に色付けされてあって「ここだけ読めばいいんだよ」みたいなガイドがある。また、章立ても細かく尚且つ文章自体が短い。覚えたくなくても覚えてしまえるぐらいの作品ばかりである。読み終わることにさして時間は掛からないし、章立てが細かい分区切りがつけやすくて、何かの途中途中で読むことが出来るのである。

今風に言えばこうなのかな。「タイパ読書」みたいな感じなのだろうか。


僕は個人的になんだけれども、タイパを求めるのは構わないと思う。僕だって出来ることなら面倒くさいことはAIとかそういうツールがあれば、それを上手く活用して時間を捻出したいとは思う。けれども、読書にそれを適用するってのは如何なものかなって思う。それは読書だけじゃなくて、映画でもそうだと思うし、美術館とかそういったところで作品に触れるってことにも大きく関わってくるんじゃないかなって実はずっと考えている。

「作品を味わう」ことがどういうことかを忘却させてしまうような現状がこの最近の読書傾向を発端に起りそうな気がしている。これは僕の経験談だけれども、美術館や博物館に行って1つの作品に対してどのくらい立ち止まるかを見ると結構分かるんだけれども、長く見る人も居れば、ゆっくりじっくり見る人も当然に居る。そこに滞在している時間のい長短でそれを味わっているのかという事を判断するのは良くないけれども、たまにサッサと歩く人たちが居たりする。何というか急いでる感じでパッパと見てパッパと出る。こういう人たちが最近、多くなっているような気がしてならない。

全体的に時間に追われている。社会全体としてそういう傾向にあるような気がしてならない。何でもかんでも社会のせいにするのは良くないのは分かっているけれども、でもどことなく余裕が無くなってきている、閉塞感があるなあとは肌感として感じるところではある。生き急いでいる感じなのかな?最初は東日本大震災の時に何となくだけどそういうのを感じて、コロナになってから自分の中でより顕在化したような気がしなくもない。

天変地異や予想できない事態が発生して、自分の生命が脅かされてしまう時、やはり僕ら人間は生き急いでしまうものなのだろうか。例えば、人間何があるか分からないから、今すぐに出来ることはやっておけ!みたいな風潮が今かなり強いと思うんだ。顕著な社会的な例で言えば「副業の解禁」とかが大きいんじゃないかなって。表向きは収入が足りない、自分の好きなことを追求する素晴らしさとかいうように謡っているけれども、その裏では時間と心に余裕のない人が生産されただけのように僕には思える。

別にだからと言って、「副業がダメ」「副業やってる奴がダメ」とかそういうことを言っている訳ではない。何なら副業出来るなら僕もしたい。ただ、何て言えばいいのかな…。これも凄く表現が難しいんだけれども、時間がない時間がないって言っている人ほどこういうのに踊らされている気がしているんだよね。むしろ、時間を大事にしていない気がする。多分だけれども、そういう人たちは時間を1つのパッケージとして捉えているのだと思う。時間は有限であるけれども、手触りのない有限性として存在しているのではないか?

古井由吉ではないけれども、「私の時間から零れる」時間に怯えているようにしか僕には思えない。勿論、時間を大切にする、有限性ある時間を有効活用し人生を実りあるものにしようという気持ちは分からなくもない。だけれども、それに踊らされているような気がしてならない。確かに人はいつか死ぬ。死に向かって生きていくだけだ。でも、それは分かり切ったことだ。もしかしたら明日、目覚めないかもしれない。もしかしたら明日、死ぬかもしれない。そういう恐怖と僕等はいつも隣合わせだということは既に分かり切っていることではないか。


こういう書き方をすると、僕は時間を大切にしていない人間かと思われてしまうが、その時間を大切にする方法は人によって異なるはずだ。だから僕は別に生き急いでいることには反対も賛成もどちらでもない。どちらも大切な心構えだと思う。問題はその一方に偏り過ぎて、そのものの本質、つまりは自分が本当に何を望んでいて、何を望んでいないかというところが雲散霧消してしまうことにあるのではないかと思われて仕方がない。

僕にとって読書をすることは、やはり時間性を見つめ直すという所に重きが置かれる。稼ぎ方がどうのとか、誰かの格言を読んだからといって僕の時間には関係ない。僕は僕の時間を生きている。しかしだ、僕のその好きな領域にまでそれが侵攻してきているのは何だか許せない。僕のゆったり流れる読書空間を邪魔するようにそういう本が溢れている。小説でもそういう傾向が増えてきた。

サクサク読める小説。小説も「タイパ」という言葉に踊らされているような気がしてならない。だから僕は最近の小説が嫌いである。消費財としての小説は結局のところ、今の生き急ぐ人達へ向けられたものであると思っている。「やりたいことは沢山ある。だけれども本は読みたい。」そういう人々に向けられた本が多いように思う。でも、それが果たして本当に読書していることになるのだろうか。

僕が思う小説の良さとは、まあ、これは先日の記録でも書いたが、時間を忘れさせてくれることにある。そこにある小説固有の時間によって縦横無尽に展開される時間の中に自分自身を埋め、現実世界の時間の流れを崩壊させていくようなそんなものである。小説世界の可能性が僕は好きである。

詰まるところ、今の社会では「ゆっくり立ち止まる」ことが許されない。だからそれを誘発するような小説は歓迎されない。またそれは映画もそうだし、美術もそうだと思う。それが「分からないものは面白くない」という問題とも関係してくるのではないかと思ってみたりする。自分で理解できないものを理解しようとするのは時間の無駄だと。特に芸術作品全般に於いて。

だから今の良い作品の指標は簡単に分かる「数」ということになる。例えば、本だったら何部発行されたとか、映画だったら興行収入はいくらで、絵画だったらいくらで売れてとか。そこで売れた作品=絶対的なものとなってしまうように思う。特に自己啓発本では大したこと書いてないのに、「売れた」という理由で「それはいい本だ」とされてしまう。しかし、その良さは人によって異なるのに、それを「数」という指標にして平板化してしまうのだろう…。


まあ、こんなことを先日の記録を書き直してふと考えてしまったという話である。だから僕は今の小説があまり好きではない。そういうことなのだ。みんな生き急ぎ過ぎだと古井由吉に教えて貰った気がする。

人は止まれない。

だけど、止まってみること、留まってみることも大切ではないか。

そんなくだらぬ話さ。

よしなに。



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