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雑感記録(187)

【寂しさの行方】


東京に来て4ヶ月が経つ。日々、充実した生活を送っている。

と書き出してみたが、実際は充実しているように自身で暗示をかけているだけで、充実している訳では…ないような気がしている。何と言うか、独りで部屋に居る時にそういうことを感じてしまう。読書や映画を見るなど好きなことをしているのだが、最近どこか満たされない感覚が背後にいつもある。その原因とは何だろうと考えるのだが、考えるまでもなく明白である。

寂しさ。

その一言以外の何物でもない。最近は本当にそれを感じるようになってしまった。自分が好きな空間ではあるし、好きなことをしているのに贅沢なことなのかもしれないが、感じてしまう。「満たされているのに満たされていない」ということは正しくこういう状況なのかなと改めて感じられる。自分の中である一定の満足、僕の場合で言えば知的好奇心が満たされるのだけれども、それだけで本当に良いのか?と懐疑的になってしまっている。

昨日、僕が銀行員時代からずっとお世話になっている社長が東京に来てくれて、一緒に飲みに行った。本当に尊い時間だった。今まで満たされていなかった何か、知的好奇心もだけれども、それ以外のところで自分の心が満たされたのが分かる。今までずっと東京に居たけど、そこでは未だ感じられない何か。それが肌感を持ってやって来る。

寂しさ。

僕は人に飢えている。そういうことだ。話をすること。傲慢だが「自分の話をすること」に飢えているのだ。昨日も思い返してみると、自分が今どういうことをしていてとか、こういう気持ちでという話をしていた。殆ど僕が一方的に話をしてしまって冷静に申し訳ないなと思った。それでもいつも優しく受け止めてくれる社長が大好きだ。

幸いなことに、僕は人に恵まれている。これは本当にいつも感じていることだ。一方的に僕が話をしても聞いてくれる友人が多い。だからその時になると僕だけが気持ち良くなって、その後別れた時に独り、歩きながら毎回毎回反省しながら帰路つく。当然に友人のことも知りたいから色々と聞くのだけれども、だとしても割りに合っていないのではないかと思われて仕方がない。

寂しさ。

でも、別に四六時中、誰かと一緒に居たい訳じゃない。それでも、誰かと居たいと思ってしまう。これは僕の弱さだ。独りで部屋に居て何もしない時間がある時、ふと思ってしまうことがある。「誰かと話が出来たらな」と。それは別に好きなことの話じゃなくても何でもいい。ただ他愛のない話でグダグダするのもいい。どこかそういうことを求めている自分が居る。

冷静になってみて、僕がここ最近、頻繁にnoteを更新しているのも根源にはこの「寂しさ」があるのではないかと思われて仕方がない。恥ずかしいことに。自分の好きな事を書くというテイで自分の「寂しさ」を紛らしているに過ぎないのではないか。これは同じことを以前の雑感記録で書いたが、ここ数日はそれ以上に肌感を持って感じられる。

恥さらしついでに言えば、自身が書いた記録のどれに「いいね」がついて読まれているか、あるいは読まれていないかということを最近では気にしてしまう。これは一概にSNSが悪いということを言えないのではないかとさえ思えてしまう。自分自身では「気にしてません」と強がっているけれども、実のところそういうことを気にしている自分が居る。これは確実に僕の弱さである。

寂しさ。

多分だけれども、誰かに必要とされたいのかもしれない。承認欲求の塊がここに来て僕の目の前に堂々と現れている。今までは薄々感じていたけれど、それが顕在化する場面が無かっただけで、独りで生活し、人との関りが極端に減少したため堂々と顕在化するに至ったのだと思う。良いか悪いかは別としても今の僕にはそう思えて仕方がないのである。というよりも事実だ。

結局今、僕は何がしたいのかよく分からなくなっている。

僕は「寂しさ」と上手く向き合えていない。書くことで、本を読むことで、好きな映画を見ることで、それが埋められると思っていた。でも、やっぱり何かが違うのだ。根本的な「寂しさ」の解消にはなっていない。難しい所である。そしてもっと厄介なのは、それを受け入れまい、その「寂しさ」を受け入れまいと頑なな自分が居ることである。

寂しさ。

SNSでこうして投稿する。「いいね」を貰う。嬉しい。誰かに読まれることは嬉しい。でもそれは根本的な「寂しさ」の解決にはならない。そこで貰えた「いいね」に一喜一憂して、その数で僕は僕自身どこかで満足してしまっているような気がしている。事実そうなのだ。そうしてそれは独りで生活することでより顕在化してきたのだ。

僕も悲しいことに、僕が嫌う数に支配されている。数の奴隷と化しているのである。貰えた「いいね」数に応じて一喜一憂して、それが正当な評価であると自分の中で了解してしまっているのである。僕はそうなるまいと思っていたし、そんなことあり得ないと思っていたけれども、でも……。これまた肌感を持って僕に押寄せて来る。

それでも、「書きたい」という欲求は抑えられない。書いている時は別に「いいね」なんて関係なく書いている。けれども自分の中で「これは良いのが書けた」というものがある時、「いいね」が気になってしまう。自分の為に書いているのに、その自分の為というのが「いいね」の数を多く貰うことにいつの間にかすり替わってしまっているような気がしている。

過去の記録でもちょこちょこ書いているが、そう思うのであれば書かなければいい。それだけの話なのだ。でも、それでも、書きたい。だから「書く」ことは難しい。特に書く場所がないというのは難しい。こういう場所でなければ一般人は「書く」場所がないからである。難しく、そして悩ましいところではある。

寂しさ?

しかし、この問題を「寂しさ」という言葉で片付けてしまっていいものなのだろうか。そしてそれを全てSNSの責任にしてしまっていいのだろうか。これを「自己の弱さ」と受け入れることも出来るだろう。その「弱さ」を受け入れて初めてしっかりとSNSと向き合えるような気がする。

だから僕は今、どうしていいのか分からない。

この分からなさの中で藻掻くことしか僕には出来ない。だから書き続けることしか僕には出来ない。開き直りではない。僕にとって書くことは好きなことであると同時に、恐らく「寂しさ」と直面し、そこに抗う為の1つの藻掻きなのかもしれない。そうすることで僕は自分自身と向き合っているのかもしれない。

最近、浜田省吾の『Midnight Blue Train』をよく聞くのだけれども、これが僕の心象と言うか、そういったものが表現されていて身に染みる。

飛び去ってゆくレールの上で
時は過ぎてく瞬く間に
描いた夢と 叶った夢が
まるで違うのに やり直せもしない
もう帰ろう みんな 投げ捨てて
でもどこへ
一体どこへ

Midnight Blue Train 連れ去って
どこへでも行く
思いのまま
走り続けることだけが生きることだと
迷わずに答えて

浜田省吾『Midnight Blue Train』
(1990年6月発売)

「走り続けることだけが生きることだと/迷わずに答えて」というある種の願いにも似た叫びだが、何だかよく分かるような気がする。結局、僕に今の段階で出来ることを着実にしていくことで、気を紛らすことしか出来ない。僕の「寂しさ」は書くことの中で藻掻き苦しむことで薄めることしか出来ない。だから僕は書き続けるしかないのかもしれない。

でも、僕は弱い人間である。

その弱さ、つまり「いいね」数を気にして一喜一憂してしまうことも受け入れなければならない。SNSのせいではなく、自分の弱さとしてそれを受け入れねばなるまい。その「寂しさ」とも向き合うために僕は書き続ける。迷わずに答えられるまで。僕には僕のやり方で「寂しさ」を受け止めねばならない。

よしなに。



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