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雑感記録(107)

【コピーそのものがオリジナル】


今日、体調不良で仕事を休んだ。頭痛持ちの僕にとってはこの梅雨の時期は辛いものがある。昨日から頭痛に悩まされていたが、今日はより症状が酷くなり朝イチで病院へ行ってそのまま休んだ。診察やら点滴やらを受け、今はまだ"しこり"みたいなものが残っている状況ではあるが、こうして文章を書ける程度には回復した。

昨日は幼馴染の結婚式に行ってきた。小さい頃から一緒に過ごしてきたから、何だかもう親戚みたいな感じだった。綺麗な姿を見て、感慨深いものがあった。思わず泣きそうになってしまったことは内緒だ。

しかし、僕は今まで結婚式に嬉しいことに何回か呼んでもらう機会があった訳だが、全て新婦側の友人として出席している。何だか不思議だ…。ウェディングドレス姿を見られるのは非常に嬉しいものだ。感動の度合いが違う。男性は正直言ってしまえばスーツにチョチョッと手を加えたような(所謂タキシードって奴だな…)姿な訳で、スーツの延長線上みたいなもんだ。ところが、女性ともなるとドレス、それも凄く綺麗な色や形をしたものになる。そりゃ感動もするだろう。


それで、過去に出席した結婚式を振返ってみると、所謂「紋切型」というか流れはどれも基本同じなんだなというのが身に染みて分かった。大体、挙式があって披露宴という流れで、披露宴ではオープニングムービーがあって写真撮影があって、ケーキ入刀があって、お色直しがあって……やることは決まっている。

その時に僕はふと思ったのだが、「同じことをやってるのに何で人ぞれぞれで異なる式になるのだろう?」と。

無論、そこに居る人たちが違う訳だし、根本的な事は異なる訳だ。中身つまり内容は異なっていてもその骨格そのものにはどれも違いがない。結婚する人に対する僕自身の思いや、一緒に過ごした時間などあらゆる点で異なってくる訳だから、そりゃ勿論中身が異なるのは当然だ。ただ、外骨格は変わらない。その流れに「ああ、お決まりのパターンね」となってもおかしくはないはずだ。それなのに退屈しないのは何故だろう。

これを考えてみようと思った時に、僕がフォローさせて頂いている方の記事をふと思い出した。

さらに、この記事を読ませて頂いたあとに、僕は三島由紀夫の『文化防衛論』を思い出して引っ張り出してきた。所謂「オリジナル」の問題。結婚式もそれこそ「オリジナル」な訳だが、その外骨格等についてはどれも同じで要はコピーが続いている訳だ。あとユリイカの蓮實重彦へのインタビューを思い出した。


 ギリシアのプラクシテレスの最上の彫刻は、今なお地中海の海底に眠っているかもしれないのである。木と紙の文化に拠った日本の造形美術が、過去に蒙った運命は、これに比べればさらに徹底している。応仁の大乱によって失われた文化財は数知れず、京都の寺社は、焼け残ったことがすでに稀な僥倖であった。
 ものとしての文化への固執が比較的稀薄であり、消失を本質とする行動様式への文化形式の移管が特色的であるのは、こうした材質の関係も一つの理由であろう。そこではオリジナルの廃滅が絶対的廃滅でないばかりか、オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じないのである。
 このもっとも端的な例を伊勢神宮の造営に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亙る二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーにたよらざるをえぬギリシア古典期の彫刻の負うているハンディギャップと比べれば、伊勢神宮の式年造営の文化概念のユニークさは明らかであろう。歌道における「本歌取り」の法則その他、この種の基本的文化概念は今日なおわれわれの心の深所を占めている。

三島由紀夫「文化防衛論」『文化防衛論』
(ちくま文庫 2006年)P.44、45

ここでは伊勢神宮の所謂「式年遷宮」のことを例に挙げながら話をしている訳だが、ここで端的に言いたいことは先の引用にもあるように「コピー自体がオリジナル」であるということだ。しかし、こう書いてしまうと何かを真似するという行為そのものを全て肯定的に捉えてしまいそうで嫌だ。

何か売上を上げたいとか、自分の利益のために、つまり我欲のためにコピーすることは僕は良くないとは思う。それは作品に対する尊敬の念というか、愛というものを感じられない。しかし、その逆もある訳で。それが所謂「オマージュ」という奴だ。そういうものは良いものだと思う。

大概、我欲の為に製作される作品は触れれば分かる。文章でもそうだし漫画でも映画でも見れば何となく感じられる。練習のために真似ることは良いことだとは思うが、それを大々的に「俺の作品だ!」と前面的に出すのはおかしな話だ。そういうのはよろしくない。

僕は個人的にだけれどもコピーには2パターンあると思っている。1つは「オマージュ」、もう1つは「結果的に似てしまった」というものだ。オマージュに関して説明することは不要だろう。もう1つのパターン、「結果的に似てしまった」ということは往々にしてあるだろう。そしてこれが1番難しいところでもある。

何だろうな…、要はその姿勢が問題になってくるのかなとは思う。「結果的に似てしまった」というパターンについては、当初はそういったものを真似て書こうと意識した訳ではなく自分の中のものと真摯に向き合った結果として似てしまったということなのかなと。これも作品に触れれば何となく分かる。

悪意のあるコピーというものは良くない。


はてさて、話が飛びすぎてしまった感も否めないが、僕は電池切れだ。

結婚式というものは構造的にはコピーな訳だ。どこでも構造そのものは同じだ。しかし、そのコピーはあくまで外骨格がコピーな訳であって、内容については人それぞれであるからこそその結婚式はオリジナルになる。結局最初に僕が滅茶苦茶断わりを入れておいたところに終局辿り着く訳だ。

同じ構造を全国でコピーされている訳だが、そこにある中身によってその同じ構造を持っている結婚式でも差異が生じる訳であり、そこにこそ人が出るのかなと思ってみたりして。

今日は何を書きたかったのか全く分からないが、「今日は調子が悪くて…」ということにしておこう。

よしなに。



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