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僕がメンタルヘルスを崩してーー負担を軽くするのは「生きるため」

僕は聖教新聞に勤めて16年目の記者です。妻、小学1年の息子、幼稚園年少の娘と4人で暮らしています。2019年に第2子が誕生し、翌年にはコロナ禍のステイホームを経験して、子育てにもっと関わりたいと思うようになりました。そうした中、長男が「幼稚園に行きたくない」と宣言。小学校に入学してからも、学校に行ったり行かなかったりという今に至ります。家族と歩む中で、僕自身もメンタルヘルスを崩したり、部署を異動したり、いろいろなことを経験しました。それは、今も現在進行形で、僕という人間を大きく育ててくれています。そんなわけで、「育自」日記として、思い出を含めて書いていきたいと思います。

幼稚園への行き渋りと不登園をへて、2022年5月から始まった息子の療育。日々一緒に過ごす時間を増やしながら、週1回の療育に付き添う〝パートナー〟として、息子から認めてもらえるようになってきました。
一方で、少し前から、僕自身の体調に変化が出ていました。

息子が幼稚園に入園した2020年。その秋に僕は部署を異動しました。
2007年に入社し、4年半は紙面のレイアウトを担当する部署に、その後の9年間は人物ルポを担当する部署の記者をしてきました。担当したテーマは、障がい、在日外国人、不登校、性的マイノリティー、日中戦争や太平洋戦争の経験などです。取材対象者の歩みを伺い、たくさんのことを学ばせてもらいました。

太平洋戦争時に学徒動員を経験した人の取材で訪れた、広島県・大久野島の旧施設

そうした個人ルポを重ね、複数の人(集団)を取材したいと感じ始めていた矢先の異動でした。希望通り、僕はNPOなどの団体や創価学会の地域組織など、集団を取材する仕事を担当し始めます。
取材対象の人数が増えてくると、その関係性を分かりやすく伝える(必要な情報を選択し、適切なストーリーとして構成する)ことが求められるので、その分エネルギーを使いました。また、新しい部署ということで、仕事のやり方(企画の立て方や人とのコミュニケーション)にも、神経を使っていたのだと思います。

異動から3カ月がたった2021年1月のある朝、目が覚めたら、めまいがしました。出勤して、会社の廊下を歩いていても、たびたびめまいが起きてふらついてしまい、自分でも驚きました。同時に、胸がざわつくというか、ドキドキする感じが止まりません。何となく〝メンタルの不調が体に出ているのかな〟と感じました。
この頃はまだ、息子が幼稚園年少の3学期。「行きたくない」と言う日に、自転車に乗せて園に送っていた当時です。地元の〝あぜ道〟を通りながら「パパも会社に行きたくないんだよー」と話していた時でした。

※息子を自転車に乗せて幼稚園に送った思い出はこちらに ↓

数日して、めまいやふらつきは治まったものの、ドキドキする感じは消えません。そこで、産業医のもとへ行きカウンセリングを受けることに。仕事と家庭(育児)の面から、自分の置かれている状況を話しました。

育児については、幼稚園への行き渋りが続くことに対する先行き不透明感。また、仕事に関しては、自分が感じるプレッシャーを話しました。担当企画が1面のトップ(一番最初に目に入りやすい記事)から始まって、2面か3面を含めた複数の面に掲載される大型企画であること。自分の署名が記事に入る中で、他の担当者に肩を並べるクオリティーになり得るのだろうかという不安。取材対象者、関係者、読者、全員に喜んでもらえるだろうかという不安。話していて、自分が「不安」に包まれていることを自覚できました。

医師からは、「よくご自身のことが見えているので、またお話を聞かせてください」とのことでした。(それから今日まで、約2週間に一度のペースで話を聞いてもらっています)
とともに、2つの薬を処方してもらいました。「抗不安薬」に分類される薬で、朝晩、飲んでいます。(薬の服用も現在まで続いています。診断名は伺っていません。私もあえては聞かないので、言わない方針なのだと理解しています)

薬を飲むようになって、それまでは「疲労」として感じていたものが、実は体調を崩していたことによる〝症状〟だったことを感じました。夕方4時頃になると決まって、疲労感とともに〝ドキドキ〟が強まってきます。
薬のおかげで不安や緊張は和らぐものの、もう少し強い薬を出してもらった方がいいのかなと思う日もあり、医師にそのことを相談すると〝疲労感も体のサインなので、そうなってきたら仕事のペースを緩めていくことが大切〟と言われました。
なるほど。これまで体力と気力で勝負してきた僕にとっては、不慣れな対処でしたが、心身の発するサインと付き合っていこうと決めました。

カウンセリングを継続し、半年がたった2021年の夏、一つの取材の機会を得ました。長崎県の五島列島で、創価学会の男子部の責任者である「圏男子部長」を務めている人と、その仲間たちに関するお話です。その圏男子部長は2015年に心療内科で「不安障害」と診断されました。そして病と付き合いながら、創価学会の活動をしていました。圏男子部長は、取材でこう語ってくれました。

「病の有無で幸福かどうかが決まるわけではない。医師の助言も受け、無理はしない。その上で、広布に生きるという目的のために、不安を抱えながらでもいいから、前へ進みたいと思いました。〝生きるために負担を軽くするのであって、負担を軽くするために生きるのではない〟と」

広布とは、広宣流布<仏法を広く宣(の)べ流布すること>の略です。自分と他人、両方の幸福を願って、信仰の実践をしていくことを、彼は決めました。その姿に、彼の周りの仲間も感化され、より一層、信仰の実践に励むように。体調を考慮し、圏男子部長自身が創価学会の会合に参加する回数は減りましたが、仲間たちが、それを補って余りあるほど動いてくれるようになりました。
(ちなみに圏男子部長は、勤め先の休職・退職を経て個別指導の学習塾を開くことに。島で人気の学習塾となりました)

長崎県の五島列島。大小100以上の島々があります

この取材を担当できたことは、僕にとってかけがえのない財産となりました。僕も当時、地元で区男子部長という同等の役職を担っていたからです(地域によって「区」や「圏」など、組織の呼び方が異なります)。また、仲間と補い合って奮闘しているということにも親近感を覚えました。

圏や区の男子部長には、パートナーとして「書記長」という立場の人が存在することが多いのですが、僕も当時、書記長と共に地域の男子部の活動を推進していました。この取材と同時期、地元の創価学会の会館の駐車場で書記長と立ち話をしていて、何がきっかけだったか、こう言われました。

「仕事で周囲から認められたくて、同じ路線で頑張っている時には、自分も息が詰まりそうだった。その枠を外して、自分のやりたいことを目指したら、いつの間にか周囲から認められるようになったんだ」

1歳年上の書記長は、僕とは別の仕事をしていますが、何事においても、本質というものは通じていると思います。
この書記長の話、また五島列島の取材を通して、僕はこう思うようになりました。

〝100点満点のリーダーが皆を引っ張っていく形だけでなく、仲間たちと補い合って進む形もあっていいんだ〟

その気づきが、今も自分を支えてくれています。そうして自分の経験とも重なりつつ作成した記事は、取材対象者はもとより、社内外の関係者からも、読者からも、好感をもって受け止められました。
同じ企画を担当していた先輩記者から、送ってもらった言葉があります。
 
「30行の記事でも300行の記事でも、伝えるべきことのために、必要なことを書く」
 
伝えるべきことを感じて、見い出すために、どうしたらいいのか。「努力」は全員がするとして、僕にとってのオリジナリティーは「経験」かもしれないと、この頃から考えるようになりました。
その経験とは、創価学会の男子部の仲間が僕にしてくれたことでもあるし、また、息子に対してしてくれたことでもありました。

(つづく)

聖教新聞の記者たちが、公式note開設の思いを語った音声配信。〝ながら聞き〟でお楽しみください ↓

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