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年齢とともに複雑化する怒りについて

怒りってかなり単純な感情では?と思うのです.大人になるにつれてもっともらしい複雑な理由で怒る人が増えてませんか...

怒りの瞬間を思い返してみましょう.あなたがいかにもっともらしい理由で相手に怒りを抱いているか,これを正当化しようとしている自分に気づくのではないでしょうか.本当は自分のちっぽけで小さなプライドがほんの少し傷つけられたというだけなのに.怒る際はぜひ,いまこの瞬間本当にしょうもないことで怒っているんだ!と自覚しつつ感情をあらわにしましょう.


はじめに

 筆者はいま大学院生です.最近年齢を重ねる(まだまだ子どもではありますが)につれて感情複雑になっているようにが表出する過程が複雑化しているように感じられます.例えば喜びひとつとっても,アイスクリームごときじゃ満面の笑みにはならないです(そんなことないかもしれない).喜怒哀楽,そのなかでも特に怒りは年々複雑化する感情のように思います.年齢を重ねるにつれて怒る回数も減り,その矛先,内容も変化しているように感じます.ここでは怒りについて考えたことをまとめてみることにしました.まずは事例で考えてみることにします.
 たとえば,夏の暑い日に炎天下で15分遅刻した相手に怒ることを想像してみてください.相手は自分とした約束を守ることができていないのです.怒って当然でしょう.遅刻って相手をなめていないとできない行為ですもの.なめられるのはいただけない.対等であるはずの人間関係が崩れていく要因ですもの.怒りましょう,ええ,怒りましょう!てな感じで起こり始めるわけです.ーきみは約束も守れないのか?ひとを待たせているという想像力に欠けているんじゃないのか.おかげさまで汗だくだよ...
 しかしながら,この場合本当の怒りの要因は何でしょう.対等なはずの人間関係で約束を守らないという,ある種の信頼関係を壊しうる裏切りへの怒りでしょうか.いやいや,夏は暑いしイライラする!汗かいたしなんだかイヤな感じ!!だからではないだろうか? かといっていい大人がそんな理由で怒るわけにはいかない.そこで,約束を破ったという社会的にも至極最もらしい理由で自分の怒りを正当化し,そのフラストレーションをぶつけるのではないでしょうか.
 この複雑化した怒りの原因は「大人がそんな理由で怒るわけにはいかない」に.あるように思います.

なぜ怒りを正当化しようとするのか

 では,なぜひとびとは怒りを正当化するのでしょうか.その理由として,わたしは恥ずかしいからではないかと考えます.学生時分を思い返すと(いまも学生ですが),感情を露わにしている人間って滑稽だった記憶があります.体育祭で負けたからと泣く女の子,馬鹿にされたんだと拳を振り上げて抗議する男,受講態度が不満だとわめく教師....みんな面白いですよね.怒りってダサいです.例に漏れずわたしも何であんなに怒っていたのかと恥ずかしい思い出は多々あります.話はそれますが,中学生のとき,部活内で集団的に強めのいじりをされたことがありました.そのとき本気で怒ると笑われた記憶があります.いじった側からすると強烈なレスポンスなんですよね.自分の感情の表出に対する反応を見て,怒りって恥ずかしいと認識した記憶があります.恥はかきたくないもんですからどんどん真っ当な怒りばかりになるのです.アンガーマネジメントなんてのもそうではないでしょうか調べてみると下記のような文言が見つかりました.

ごく簡単に言えば、私たちが怒るのは自分と違うことに対してです。自分と考え方が違う、好きなものが違う、価値観が違う、態度が違う、あり方が違う、理想が違うといって怒ります。ところが、よく考えてみれば自分の周りには自分と違うことしかありません。

アンガーマネジメントができると、違いを理解し受け入れられます。アンガーマネジメントのできる人は、違いに対して無駄に怒ることはありません。
寛容で無駄に怒らない人のまわりには人が集まります。人は受け入れてくれる人と一緒にいたいからです。

太字は筆者
一般社団法人日本アンガーマネジメント協会HP:https://www.angermanagement.co.jp/about

これを導入することで,確かに怒る回数や不本意な怒りは減らすことができるように思います.しかしながら無駄じゃない怒りなんてあるのでしょうか?

ひとは怒るべきではないのか

 ここで話がそれるかも知れないですが,生理学的な話をしたいと思います.生物学的には,怒りというのは脳の中で大脳辺縁系が司っているとされており,その周りを大脳皮質といった理性的な知性,言語を司る部位が覆う構造になっています.脳の内側に行くほど原始的だとされており,感情は理性に比べて強固に作用すると予想されます.また進化の道程で早期に発芽した特性は後期特性に比べて強烈に作用することが知られています.この2点から疑問に思うことは「無駄じゃない怒りなんてあるのでしょうか?」ということです.人間の意識は無意識の行動を説明づけるだけに過ぎないシステムではないか,というベンジャミンリベットの実験は有名ですが,怒りも同様に根源的で稚拙な表象を大脳皮質が言語化しているだけではないかと思うのです.つまり,怒りはおしなべてつまらないものだと思うのです.
 ではその心底つまらない怒りはどのような作用をもたらすのか考えてみます.ひとがなにかに怒るとき,そこには厳然とした対象が存在します.対象は自分とは切り離された独立存在である必要があり,怒るという行為そのものが外界に対する自己正当化でもあり得るからです.怒りという行為は外部存在と上手くいっていっていない自己を納得させる社会的な行動の一種とも見ることができそうです.
 少し話は変わりますが,マクロな視点でみると自己嫌悪感も怒りの一種と言えると思います.青年心理学では,青年期に自己嫌悪感から自己受容へとつながり壮年期に移行していくという話があります.青年期における自己嫌悪は過去の許せない自分を切り離して拒絶し,自分の正しさを担保する自己正当化に過ぎないということです.だからこそ青年期に抱いた自己嫌悪感は非生産的で,いずれ自己受容といった成長が待っているのです(下記は三島由紀夫の自己嫌悪感についてです).

 閑話休題,わたしが言いたいのは怒りという感情は引きで見るといずれもしょうもないし,結局正当化できないということです.では怒るべきではないのでしょうか.否,怒りましょう!

羞恥心を持ちつつ怒りましょう!

 前述の通り,ひとがなにかに怒るとき,そこには自己存在と対峙した対象を想定しています.その姿勢自体は対人コミュニケーション(or 内省)においてひどく大切だと思うのです.お互いに寄り添い,感情をすりあわせていく行為が人間関係なのだとしたら,適度に不快感を示していくのは重要な対話のひとつでしょう.ただ,他人を目的としない,手段として捉え自分が気持ちよくなるためだけの怒りは対話ではありません.
 しかしながらといいますかやはり怒りは恥ずかしい感情なのです.どうしようもなく.何を考えても他人から見たら恥ずかしい感情でしかなくかっこよく露わになどできないのです.どうせならかっこつけず,みっともなく,無様に,滑稽に,恥ずかしく,どうしようもなく怒りましょう!どんなに情けなくとも今後の関係のためには伝えておきたいのだと!!!そう思うと怒ってくれる人って素晴らしいですよね.みなさんもぜひ怒りましょう.
(2023.10.20)







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