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社会構成主義の考え方を「わたし」の経験とつなぐ ー意味とストーリーー

 朝日新聞土曜版「be」のプロントランナーを読むのは好きです。
今日のフロントランナーは、「新外交イニシアティブ代表・弁護士、猿田佐世さん 独自の外交を切りひらく」について掲載されていました。

 軍事力が抜本的に増強されるなか、彼女は、戦争を起こさないための外交が必要と考え、「戦争回避」を訴え、講演で国内各地を飛びまわっています。本当に素敵な方だと思いました。

 大学で教鞭をとる両親は管理教育に批判的で、自主性を重んじる教育を受けられたそうです。そうした環境の中で、小学4年の頃、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが抱く飢餓状態のアフリカの子どもたちをテレビで見たのがきっかけで、6年の頃、国連を知り、働きたいと思うようになったとのことでした。
 小学4年生で人権にかかわる仕事をしたいと思うなんて凄すごい人だなーと思います。

という思いとともに、「協働するカウンセリングと心理療法ー文化とナラティヴをめぐる臨床実践テキスト」の第1章「文化・カウンセリング・ケア」の「意味とストーリー」の項目が私の中に浮かんできました。

 このテキストでは、「意味とは、人々が自分の経験に加えたひねりのようなものである。それは科学者の言う現実ではなく、人々が生きている現実を形作っている。人というレンズを通してみた現実と言ってよい」と述べられており、

「この『現実』を伝える主要な手段がストーリーである」といっています。

そして、「意味はセロから作り出されるわけではなく、利用可能な解釈やストーリーから導き出される」。「そうした解釈やストーリーは、普通文化内位置から制約を受けており、このおかげで、自分の人生に起こる出来事の見通しを持つことができる」と述べられています。

 上流階級の出で大学成就を親に持つ少年と、下町が暮らす少年が同じ成績をとったとしても、一方は将来に対してハーバードで教えられるかもしれないと意味づけられますが、もう一方の少年の将来像は自ずと限定され、ハーバートで教える夢は幼稚な戯言に見られてしまうことになると述べています。

 小学生の彼女が将来「人権にかかわる仕事をしたいと考えること」が幼稚な戯言と見られない文化内位置にいたのです。

 その時わいてきたのは、小学生で「人権にかかわる仕事をしたい」と思えるような文化内位置にいなかったわたしは「意味」がない存在なだろうか?ということでした。

 福岡県でも封建的な筑後地区に生まれ、まだ、女性学やフェミニズムという言葉も多分なかっただろう時代の中学生の私が「女に生まれて損をした」と思ったわたしのオリジナルのストーリーがあります。

 文化内位置から制約を受けて、もがきながら生きてきた「わたし」であるからこそ、社会の中でできることがあるのではないだろうかと、そのようなぼんやりとしたものが浮かんできました。

 一人ひとりの経験が異なるからこそ、誰もが一人ひとり「かけがえのない人」として社会の中に存在しているのである。と思うのです。

*「女性学」日本において「女性学」という訳語を最初に用いたのは、井上輝子の1974年の報告書「アメリカ諸大学の女性学講座」においてである

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