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最近の記事

観心と観身と観人

わたしが言う観心というのは、自分の心の動きを自分自身でモニタリングしていくことである。 時々刻々と変化していく自分自身の心の状態を俯瞰的に対象化して意識するように努力すると、当の心理状態に飲まれるということがなくなるから、例えば、怒りの感情に支配されてつい大声を出してしまったりというようなことはなくなる。 また、観心によって自分の心の動き方の傾向性を把握することも可能になるので、もしある傾向性に不満を感じるならば、意識的に修正を加えていく努力が可能になる。自分にとっての理

    • 本尊の形式と内容の区別の問題

      日蓮の本尊について議論する場合には、形式と内容を区別することが重要である。そのことは、勝呂信静さんの『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社、1965年)において、「形式と思想」という表現によって以下のように指摘されている。 “あまり本尊論議がやかましいので、日蓮宗では本尊が統一されていないという人すらある。しかし、本尊論議を行なっている学者も、また第三者の立場からそれを批判する人たちも、そこに考え方の混乱があって、一そう議論を判りにくくしているようである。それは一口にいうと、本

      • ゴータマの宗教は小乗仏教ではない

        ゴータマの宗教を小乗仏教だと思っている人がいまだにおられるようである。しかし、そのような人の理解は迷妄であって勘違いである。今回はそのことについて述べる。 中国に仏教が伝えられていらい、多くの人がゴータマの宗教を小乗仏教だと勘違いしてきたというのは歴史的な事実である。そのことについては、三枝充悳さんが以下のように指摘されていた。 “ なお漢訳仏教圏にあっては、漢訳七論の所属が上述したとおり有部であったために、おそらくは後発の大乗仏教の用語・用例などに同調し迎合して、逆に、

        • 教えの中に生きつづけるゴータマ

          『法華経』の寿量品は、「釈尊はずっと生き続けていて、永遠に法を説いている」と主張するわけであるが、これはどういう意味なのであろうか。『法華経』は初期経典に取材して創作された物語であるから、初期経典(ゴータマの発言)に根拠があるはずである。今回は、この点について、(久しぶりに)初期経典を読みながら少し考えてみたいと思う。実は、この問題は、日蓮の宗教を理解するためにもかなり重要な要素になると思うので、そのことについても最後にふれよう。 ゴータマは、「人間の肉体は必ず滅ぶ」という

        観心と観身と観人

          日蓮の曼荼羅は密教のマンダラではない

          日蓮の曼荼羅を密教のマンダラと混同している人がほとんどであるようだが、日蓮が描いた曼荼羅は浄土変相図(以下、変相という)の一種であって密教のマンダラではない。以下、このことについて説明する。 まず、基本的な事実を確認しておこう。変相はインド、チベットでは「マンダラ」とは呼ばれないが、日本人はそれらを含めて「曼荼羅」と呼んでいる。日本においていつ頃から変相を「曼荼羅」と呼ぶようになったかについてまでは詳しく知らないが、遅くとも寛喜元年(1229年)の3月の時点ではすでに浄土変

          日蓮の曼荼羅は密教のマンダラではない

          本門の戒壇は本門の僧侶を生み出す装置

          日蓮が提示した三大正法の一つに「本門の戒壇」というものがあるのだが、日蓮じしんはそれについてほとんど説明をしていないせいでさまざまな解釈がなされている。今回は、わたしの解釈を提示しておきたい。 日蓮は法華経の迹門の三学(戒定慧)と本門の三学を区別しており、迹門の戒を授ける場所(迹門の戒壇)が最澄の努力の結果として叡山に建立されたことを偉業として賞賛している。 故に教大師像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内、其の中円頓の戒壇を叡山に建立し給ひし時、二百五十戒忽ちに

          本門の戒壇は本門の僧侶を生み出す装置

          三重興絶と六重相対と三大正法

          法華玄義の巻第二上に見られる「三重興絶」の説から解説をはじめる。「三重興絶」というのはわたしの造語なのであるが、それは中古天台の四重興廃説の発想の原点となったといわれている法華玄義の文章を指している。なぜその部分を「三重興絶」と呼ぶかについては後で説明することにして、法華玄義の当該部分をまず引用しておこう。菅野博史さんによる現代語訳も引用しておく。 “絶は是れ妙の異名なり。〔中略〕又た、妙は是れ能絶、麁は是れ所絶なり。此の妙に麁を絶するの功有るが故に、絶を挙げて、以て妙に名

          三重興絶と六重相対と三大正法

          六重の相対

          ハタチさんが「八重の相対」というトンデモ説を提唱しているようなので、それに対抗するために、学問的にきちんと成立する説として「六重の相対」という理論を以下に提案しておく。 なぜ六重の相対を提案する必要があるのかというと、五重の相対には理論的に不備があると考えるからである。理論的に不備があるから、腑に落ちないところが残り、トンデモ説が提唱される余地が残ってしまっているのだと思う。よって、五重の相対の理論的不備を解消してスッキリと腑に落ちるような理論が必要だろう。 以下では、ま

          六重の相対

          創価学会の昭和53年の挫折と日蓮本仏論

          わたしはツイッターで以下のように述べたのだが、このことをもう少し詳しく説明しておきたいと思う。 “池田大作さんの52年路線は、その主張内容を単体で評価するなら、創価学会を日寛教学から解放する方向性を有していたという意味で高く評価できるが、その後の日蓮正宗への屈服とあわせて評価するなら、かえって強く創価学会を日寛教学に縛りつける結果となったという意味で罪が重いと言わざるを得ない。“ (https://twitter.com/Libra_Critical/status/1236

          創価学会の昭和53年の挫折と日蓮本仏論

          創価学会の本尊は昔から「人法一箇」

          創価学会の教学アドバイザーである宮田幸一さんは「創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としている」と主張している。今回は、このような主張が歴史的事実に反することを説明しておきたいと思う。そのために、まず、宮田幸一さんの当該主張を引用しておこう。 “創価学会は本尊として法本尊=曼荼羅本尊しか認めていない。〔中略〕  日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を

          創価学会の本尊は昔から「人法一箇」

          創価学会の52年路線とは何だったのか

          現在の創価学会の体質の最大の問題点を一言でいうと権威主義である。世間では創価学会の査問とかスラップ訴訟とかがすでに問題視されているが、それらの事象はすべて創価学会の権威主義的体質に起因するものといってよいだろう。 今回は、なぜ創価学会がこのような権威主義的組織になりさがってしまったのかを考えるきっかけとして、創価学会の52年路線のことを少し振り返ってみたいと思う。というのも、わたしが見るかぎり、52年路線というのは明確に反権威主義の方向性をもっていたからである。このことを示

          創価学会の52年路線とは何だったのか