教えの中に生きつづけるゴータマ

『法華経』の寿量品は、「釈尊はずっと生き続けていて、永遠に法を説いている」と主張するわけであるが、これはどういう意味なのであろうか。『法華経』は初期経典に取材して創作された物語であるから、初期経典(ゴータマの発言)に根拠があるはずである。今回は、この点について、(久しぶりに)初期経典を読みながら少し考えてみたいと思う。実は、この問題は、日蓮の宗教を理解するためにもかなり重要な要素になると思うので、そのことについても最後にふれよう。

ゴータマは、「人間の肉体は必ず滅ぶ」というあたりまえのことを前提として、教団にとっての自身の存在をどのように位置づけていたのであろうか。そのことについてのゴータマの発言を確認するところからまずはじめよう。大般涅槃経より引用する。

“「アーナンダよ、いま比丘僧伽がわたしに何を期待するのであるか。アーナンダよ、わたしは、内外の区別なく法を説いた。アーナンダよ、わたしの教法には、教師の握拳はない。アーナンダよ、もしある人が、〈わたしが比丘僧伽を統べよう〉とか、あるいは、〈比丘僧伽はわたしの指導のもとにある〉とか考えているのだったら、その人は、比丘僧伽についていうべきこともあろう。だが、アーナンダよ、わたしは、〈わたしが比丘僧伽を統べよう〉とも、〈比丘僧伽はわたしの指導のもとにある〉とも考えてはいない。だから、アーナンダよ、わたしには、比丘僧伽についてなんのいうべきことがあるであろうか。“
(増谷文雄編訳『阿含経典 3』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、p. 367)

ゴータマは、「〈比丘僧伽はわたしの指導のもとにある〉とも考えてはいない」といいながら、「わたしは、内外の区別なく法を説いた。アーナンダよ、わたしの教法には、教師の握拳はない」のだという。これは、要するに、ゴータマの頭の中で完成された理論(仏教)は客観的に他者にも認識できる形ですでに表現されていて、かつ、個々に生じてくる問題はその理論によって解決されうるのであるから、いちいちゴータマが個々の問題について解決法を示す必要はもうないということなのであろう。

ゴータマは、自身の身体と自身が説いた法とを対比して以下のように語っている(相応部22-87)。

“「大徳よ、わたしは、すでに久しい前から、参上して世尊にお目にかかりたいと思っていたのでございますが、わたしの身体は、もう参上して世尊にお目にかかるだけの力に欠けておりました」
「いやいや、ヴァッカリよ、この汚らわしいわたしの身体を見ても何になろうぞ。ヴァッカリよ、法を見る者はわれを見る者であり、われを見る者は法を見る者である。ヴァッカリよ、まことに、法を見る者はわれを見る者であり、われを見る者は、法を見る者である。」“
(増谷文雄編訳『阿含経典 1』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、p. 556)

この引用の前半部分はヴァッカリの発言であるが、ゴータマはその発言をうけて、「この汚らわしいわたしの身体を見ても何になろうぞ」という。ゴータマの身体というのは、仏教という内容が盛られた最初の容器であるわけだが、その容器じたいを見ていて中身を見なければ何にもならないということをゴータマはいっているのであろう。ゴータマは他の初期経典で「法を見ざる者はわたしを見ない」とはっきりいっている。このようなゴータマの考えについては、増谷文雄さんの解説が参考になるので紹介しておこう。

「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

仏教のオリジナルの容器としてのゴータマの身体が滅び去った後、仏弟子たちはどうすればよいのであろうか。そのことについて、ゴータマは、以下のように語っている(大般涅槃経)。

“「アーナンダよ、あるいは、汝らにかかる思いがあるやも知れない。〈教主のことばは終った。もはや、われらの教主はない〉と。だが、アーナンダよ、それをかく見てはならない。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた法と律とは、わが亡きのちにおける汝らの師である。」“
(増谷文雄編訳『阿含経典 3』〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2012年、p. 471)

ゴータマは、「教主のことばは終った」とか、「もはや、われらの教主はない」とかと考えてはならないという。つまり、ゴータマとしては、ゴータマの身体が滅び去った後でも、「教主のことばは続いている」とか、「われらの教主はいる」と考えてもらいたいということであろう。そして、「わたしによって説かれ、教えられた法と律とは、わが亡きのちにおける汝らの師である」と明言している。

以上の説明を要約すると、「ゴータマが死んでも、法を見る者が見るゴータマは仏教徒にとっての師として生き続ける」というのが仏教の基本的な考えだということになる。

もちろん、ゴータマには有名な「筏の喩」の説法があるから、ゴータマの教えを師とするといっても、バージョンアップは必要になるであろう。仏教徒は、ゴータマの教えを【バージョンアップの必要性の主張を含んだものとしてうけとって】師とすればよいのである。「筏の喩」の説法(大正蔵第26巻、pp. 763b-766b)については、以下を参照されたい。

「阿梨咤経」『中阿含経(第200経)』
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/AritaKyou/AritaKyou.htm?v=20190131#%E7%AD%8F%E3%81%AE%E5%96%A9

パーリ中部22
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c05.files/sheet001.htm

実際、仏教というのは、ゴータマの死後もバージョンアップを続けて発展してきているのであり、それが現実の仏教の歴史である。

さて、『法華経』に話をもどすことにしよう。『法華経』には、『法華経』という経典をそのまま【生きている仏】と見る考えがある。松本史朗さんの解説を引用しておこう。

『法華経』の経巻を〝生きている仏陀〟そのものと見なす考え方(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/137.html

このように、『法華経』では、『法華経』という経典を生きている仏と見るのであるが、これは、要するに、初期経典にある「法を見る者はわれを見る」という考えを文学的に表現しているのである。

『法華経』の寿量品は、『法華経』という経典を生きている仏と見る考えを前提として、「釈尊はずっと生き続けていて、永遠に法を説いている」と主張するわけであるが、これは、要するに、初期経典にある「法を見る者が見るゴータマが師として生き続ける」という考えを文学的に表現しているのだと思う。

最後に、以上述べたことと日蓮の宗教との関係性についてふれておきたい。日蓮は、『法華経』という経典を生きている仏と見ている。『法華経』の思想に忠実であろうとすれば当然そうなるのだが、以下に、末木文美士さんの解説を引用しておこう。

日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
http://fallibilism.web.fc2.com/120.html

さらにいうと、日蓮は、妙法蓮華経の五字に『法華経』の中身(名体宗用教の五重玄)が全部つまっていると考えているので、日蓮にとっては、

妙法蓮華経の五字=釈尊

なのである。もちろん、日蓮にとっての妙法蓮華経の五字は、教法としての意味も同時に持っている。つまり、日蓮のこのような考えは、「法を見る者はわれを見る者であり、われを見る者は法を見る者である」という仏教の考えそのものなのである。このような仏教の考えを理解できない人には、報恩抄の「教主釈尊を本尊とすべし」(報恩抄)という一文は理解が難しいのだろう。「人本尊はだめで法本尊の方がよい」とか言う人がたまにおられるのだが、そういう方は、「法を見る者はわれを見る者であり、われを見る者は法を見る者である」という仏教の基本的な考えを理解していないのだと思う。

以上で、教えの中に生きつづけるゴータマに関する話をおわる。

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