創価学会の本尊は昔から「人法一箇」

創価学会の教学アドバイザーである宮田幸一さんは「創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としている」と主張している。今回は、このような主張が歴史的事実に反することを説明しておきたいと思う。そのために、まず、宮田幸一さんの当該主張を引用しておこう。

“創価学会は本尊として法本尊=曼荼羅本尊しか認めていない。〔中略〕
 日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。
正統性は血脈にではなく重要な教えをそのまま実行しているかどうかで判断するという論点は日興の立場でもある。“
(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(5) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-5.html)

宮田幸一さんの主張は2つの意味で歴史的事実に反する。まず第一に、日蓮じしんは曼荼羅という形式の本尊だけを認めていたわけではなく、仏像形式の本尊も認めていたというのは否定しようがない歴史的事実なのであるから、「曼荼羅本尊しか認めていない」ことが「日蓮の教えの通り」であるという主張は完全に嘘である。日蓮じしんが釈尊像を本尊として安置していたことは「神国王御書」に明確に書かれているし、「御遷化記録」には、日蓮が生涯持ち続けた釈迦立像が「御本尊一体」と書かれている(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p.184)。日蓮とその弟子たちの共通認識として、釈尊像が本尊として認められていたことは明らかである。

次に、宮田さんの主張が歴史的事実に反する第二の点について述べる。創価学会は昔から曼荼羅本尊を人法一箇の本尊と言ってきたのであるから、創価学会にとっての曼荼羅本尊は法本尊であると同時に人本尊でもある。よって、「創価学会は法本尊のみを本尊としている」という主張も完全に嘘である。

日蓮にとって法華経と釈尊は同体であった。このことは日蓮の遺文を読めば明らかであり、日蓮の「重要な教え」であると言ってよい(http://fallibilism.web.fc2.com/120.html)。法本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えであるなどと主張するのは、日蓮の遺文を読めていない証拠でしかないだろう。

創価学会は昔から曼荼羅を人法一箇の本尊と理解してきたのであるから、その点では、宮田さんよりも日蓮の遺文を正しく読んできたと言える。創価学会の理解を示すため、池田大作さんの解説を引用しておこう。

“〔前略〕「四条金吾殿御返事」に「法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う。仏の御心はこの文字に備れり」(御書全集一一二二㌻)とあります。
 法華経とは法本尊のことで、釈迦如来とは人本尊です。「人法一箇」を表しています。“
(中部記念幹部会〔昭和51年7月27日 名古屋文化会館〕、池田大作『広布第二章の指針 第9集』、聖教新聞社、1977年、pp. 24)

「四条金吾殿御返事」には「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一也。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。」ともある。これが日蓮の「重要な教え」である。曼荼羅の中尊は法華経の肝心である五字であるが、この五字は「釈尊の因行果徳の二法」(「観心本尊抄」)を具足しているのであって、当然、「法華経本門久成之釈尊」(「曾谷入道殿許御書」)と同体なのである。池田大作さんの解説をもう一つ引用してみよう。

“そのように教主釈尊すなわち御本尊に朗々と勤行、唱題をすれば、自分の生命の仏界が大きく動いていくともいえます。ですから信心強盛に朗々たる勤行、唱題の場合には「頭をふればかみゆるぐ……」がごとく、釈尊すなわち御本尊も動いてくださり、三世の仏菩薩そして諸天善神も働いてくれる。これこそが、われわれの生命から仏界を湧現させ律動させることができる根本法則なのです。“
(中部記念幹部会〔昭和51年7月27日 名古屋文化会館〕、池田大作『広布第二章の指針 第9集』、聖教新聞社、1977年、pp. 22-23)

この解説においては、「教主釈尊すなわち御本尊」と表現されており、「御本尊」を人法一箇の本尊と理解していることが明らかである。さらに言うと、ここで「頭をふればかみゆるぐ……」として引用されている日蓮遺文は「日眼女釈迦仏供養事」であり、その前段には「釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり」と書かれている。当然、釈尊像を人法一箇の本尊と仰いで勤行・唱題したとしても「われわれの生命から仏界を湧現させ律動させることができる」ということになるのが道理である。

重要な教えをそのまま実行しているかどうかで正統性を判断するという論点を採用するのであれば、法本尊のみを本尊と認めようとする宮田幸一さんよりも、本尊を人法一箇と理解している池田大作さんの方に正統性があるといえよう。もっとも、池田大作さんの曼荼羅理解には別の問題(宇宙生命論の弊害)があると思うが、それについては別の機会にあらためて批判を試みたい。

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