六重の相対

ハタチさんが「八重の相対」というトンデモ説を提唱しているようなので、それに対抗するために、学問的にきちんと成立する説として「六重の相対」という理論を以下に提案しておく。

なぜ六重の相対を提案する必要があるのかというと、五重の相対には理論的に不備があると考えるからである。理論的に不備があるから、腑に落ちないところが残り、トンデモ説が提唱される余地が残ってしまっているのだと思う。よって、五重の相対の理論的不備を解消してスッキリと腑に落ちるような理論が必要だろう。

以下では、まず五重の相対の理論的な不備を指摘する。その後で、その不備を改善するために、第六の相対(事理の相対)を追加することを提案する。

では、まず五重の相対の理論的な不備の指摘からはじめる。五重の相対というのは創価学会や日蓮正宗だけでいわれている理論ではなくて、日蓮宗でもいわれているものである。ここでは、日蓮宗の浅井円道さんの解説を引用しておく。

“ 次に聖人独自の教判としては弘長二年(四十一歳)『教機時国鈔』で発表された教・機・時・国・教法流布前後の五義判、文永九年(五十一歳)『開目抄』中に見られる内外・大小・権実・本迹・底上の五重相対とこの四種三段である。独自の三種のうち、五重相対は明らかに教相判釈であって、内典と外典と相対して内典、内典の中の大乗と小乗と相対して大乗、大乗の中の権大乗と実大乗と相対して実大乗の法華経、法華経の中の迹門と本門と相対して本門、本門の文上と文底と相対して文底の一念三千・妙法五字を取る教判であるが〔後略〕“
(浅井円道『観心本尊抄 仏典講座38』、大蔵出版、1982年、p. 201)

わたしが問題があると感じるのは第五の底上の相対である。浅井さんは「本門の文上と文底と相対して文底の一念三千・妙法五字を取る教判である」というのだが、五字は法華経の各品の冒頭におかれているのであるから、五字じたいはあきらかに文上にあるのであり、妙法五字を取る教判を「底上の相対」と説明するのはおかしいだろう。なので、底上の相対は、「本門の文上と文底と相対して文底の一念三千を取る教判である」と説明するのが正しいだろう。

『開目抄』において日蓮は以下のようにいう。

“一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり。“
(『開目抄』、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/)

天台大師チギが『摩訶止観』で明らかにした修行法である一念三千という観法は寿量品の文の底にしずめられている、というのが日蓮の理解である。これは、つまり、寿量品の文上では明らかにされていない寿量の仏の因位の修行法を一念三千の観法(観心)とみているということなのであるが、その点についてはすでにブログで説明したことがあるので(http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-43.html)、ここでは『法華玄義』の文章と菅野博史さんによる解説を引用しておくにとどめる。

“十に観心とは、本の妙は長遠なり。豈に心を観ず可けん。即是ならずと雖も、亦た心を離れず。何となれば、仏の如と衆生の如と、一如にして二如無し。仏は既に心を観じて、此の本の妙を得れば、迹の用は広大にして、称げて説く可からず。“
(菅野博史訳注『法華玄義(下)』〔第三文明選書3〕、第三文明社、2016年、p.728)
“(10)観心 最後に、第十項の「観心」では、仏は観心、つまり心を観察することによって本門の妙を得たのであり、仏の如=真如と衆生の如は一如であるから、衆生も観心によって、この本門の妙を得ることができると述べている。“
(菅野博史『『法華玄義』を読む 天台思想入門』、大藏出版、2013年、pp. 280-281)

さて、底上の相対を「本門の文上と文底と相対して文底の一念三千を取る教判である」と説明することにするとその後はどうなるか。もちろん、残っているのは「妙法五字を取る教判」である。つまり、日蓮がどういう論理で「一念三千の観法」と「五字の受持」を相対しているかということである。この論理が明確にされているのが『観心本尊抄』なのであるが、要するに、その論理は「無相の行」と「有相の行」の相対である。

「無相の行」と「有相の行」については、浅井円道さんの解説が参考になるのでまず引用しておこう。

“またこれを「事」というのは、最も基本的な意味としては、十境の心に対して十乗の心を運らし、もって不思議境を心中に感得するという天台止観は、心中において無相の行を修して心中において無相の理想境を見るという無相の観心修行である。これに対して、いまは目に本門の本尊を見て合掌礼拝し、口に南無妙法蓮華経と唱える、身儀・口儀を主とする有相行であるから「事行」というのである。“
(浅井円道『観心本尊抄 仏典講座38』、大蔵出版、1982年、p. 247)

五字は名体宗用教の五重玄を具足し、そのうちの宗は仏の自行の因果であるから、五字は本因本果を具足する。よって、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」(『観心本尊抄』)という主張が成り立つ。ここまでは天台学から導ける主張であるが、そこに、寿量の仏の因行を一念三千の観法とみるという考えが接続されれば、五字には寿量の仏の因行(本因)である一念三千の観法が具足するという主張が導かれることになる。そういう論理によって、「五字には一念三千の観法(本因)が具足するから、五字の受持によってわれわれは成仏できる」という日蓮の宗教が誕生することになる。

“私に会通を加えば本文を黷すが如し。爾りと雖も、文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。“
(『観心本尊抄』、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/)

「仏は観心によって本門の妙を得たのであり、衆生も観心によって本門の妙を得ることができる」というところまでは天台学でもいうが、それは「無相の観心修行」を衆生に要求することになるから現実的にはハードルが高いといわざるをえない。これに対して、そのような「無相の観心修行」は仏の慈悲によって衆生のためにすでに有相化されていると理解するのが日蓮の宗教であるといえよう。日蓮の以下の主張はそういう意味なのである。

“一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。“
(『観心本尊抄』、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/)

日蓮の考えをこのようにとらえるなら、五重の相対の第五の相対を「本門の文上と文底と相対して、文底に沈められている一念三千の観法(本因)を取る教判である」と理解し、さらに第六の相対を設けて、「一念三千の修行法を相対して、有相行である五字の受持(事の一念三千)を取る教判である」と説明するのがよいと思う。

以上、五重の相対の理論的不備を解消すべく、第五の底上の相対の理解のしかたを修正したうえで第六の事理相対を設けるべきであると提案した。日蓮の宗教の説明としては、六重の相対で完結していると考える。

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