本門の戒壇は本門の僧侶を生み出す装置

日蓮が提示した三大正法の一つに「本門の戒壇」というものがあるのだが、日蓮じしんはそれについてほとんど説明をしていないせいでさまざまな解釈がなされている。今回は、わたしの解釈を提示しておきたい。

日蓮は法華経の迹門の三学(戒定慧)と本門の三学を区別しており、迹門の戒を授ける場所(迹門の戒壇)が最澄の努力の結果として叡山に建立されたことを偉業として賞賛している。

故に教大師像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内、其の中円頓の戒壇を叡山に建立し給ひし時、二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ。
(『下山御消息』、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/)

そのうえで、以下のように、日蓮じしんは本門の戒壇を提示するのである。

“ 問て云く 天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。
 答て云く 有り。
 求めて云く 何物乎。
 答て云く 三あり。末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。
 求めて云く 其形貌如何。
 答て云く 一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。“
(『報恩抄』、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/)

『報恩抄』のこの部分の直前のところでは「叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ」、「法の流布は〔中略〕天台よりも伝教は超えさせ給ひたり」といっているので、日蓮がいうところの本門の戒壇というのは、叡山に建立された大乗戒壇(迹門の戒壇)の本門バージョンということになるだろう。

日蓮が本門の戒をどう理解しているかを知るためには『四信五品抄』が大いに参考になる。ポイントとなる部分を引用してみよう。

“ 問て云く 末代初信の行者、何物をか制止するや。
 答て曰く 檀戒等の五度をを制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜之気分と為す也。是れ則ち此の経の本意也。“
(『四信五品抄』、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/)
“ 問ふ 末法に入て初心の行者は必ず円の三学を具するや不や。
 答て曰く 此の義大事たり。〔中略〕所謂、五品之初め二三品には、仏正しく戒定の二法を制止して、一向に慧の一分に限る。“
(同上)

これらの引用から、日蓮は、初信の行者には戒は不要といっていることがわかる。これは、日蓮が語る本門の戒を考える際には僧俗(出家と在家)の区別が問題になるということであり、本門の戒の受戒が必要になってくるのは、初信の行者を卒業する段階であるといえる。要するに、僧侶になるような場合に本門の戒の受戒が必要になってくるということである。

以上のことをふまえて、本門の戒壇というものをイメージするならば、叡山の戒壇の本門バージョンのようなものであり、そこにおいて正式な本門の僧侶が生み出されるところの授戒の場所ということになる。

つまり、本門の戒壇とは、本門の僧侶を生み出すための舞台装置なのである。それによって本門の法華宗がひとつの独立した宗として成立することになるともいえよう。そういう意味で、本門の戒壇を三宝のうちの僧宝とみることが可能なのである。前回のノートにおいて以下のように述べておいたのはそういう意味なのであった。

“日蓮のこの三大正法という考えは、おそらく、仏教の伝統的な帰依三宝の形式に依拠しているのだと思われる。すなわち、仏への帰依の対象が「本門の本尊」(寿量の仏)、法への帰依の対象が「本門の題目」(五字)、サンガへの帰依の象徴が「本門の戒壇」(サンガに入ることを許可するシステム)ということであろうと思う。“
(https://note.com/libra2020/n/n7220f39c5a3a)

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