世阿弥のブランド論 後編

世阿弥、どこが凄いのか 


『風姿花伝』にしても『花鏡』にしても、能の目利かずの私であっても、読み進んでいくにつれて、多くの花=驚きに出くわす。もう一度読み返してみるとまた最初に気づかなかった別の花に出くわす。近年出合った書物の中でこんなに楽しいものは記憶にない。立ち止まって、ブランドづくりの現場に立会いながらその営みを司る原理に少しでも近づこうとしている浅学の立場から、これらの著作のどこが凄いのかを考えてみると、行きつ戻りつしながらつぎの3点にたどり着いた。 

1、ハピネスの提供をすべての議論の出発点にしている 

2、客の「目利き・目利かず」、為手の「上手・下手」以外の上下関係はないと言い切っている

3、永遠の存続を強く意識している 

この3点を軸にして世阿弥の芸術論の輪郭をなぞってみよう。 

■ ハピネスがすべての始まり:「能に花を知ること、・・・、無上第一なり」
このメッセージは、世阿弥のすべての議論の出発点である。能は何のためにあるのか、自分は何のために能の脚本を書き、能を演ずるのか。世阿弥の答は明々白々で、「花」すなわち観客のハピネスのためだ、それ以外にはないと言い切る。 

問。能に花を知ること、この条々を見るに、無上第一なり。肝要なり。または不審なり。これ、いかにとして心得べきや。

 答。この道の奥義を窮むるところなるべし。一大事とも秘事とも、ただこの一道なり。・・・ 

これは「風姿花伝第三 問答条々」という、(おそらく)弟子がFAQ的に質問し、世阿弥がそれに答える、という下りにある一節で、能では、花が何たるかを知ることが何にもまして重要であると、強く主張している。花が能という芸の基本価値、基本理念だと言うのだ。本章の冒頭で述べたように、多くのブランドは、世阿弥のいう花を知り、思うがままにそれを咲かせたいと願っている。しかしながら、それを正面切って論じたり、ましてやそれを後進のために文書に残したりできた経営者はいない。 

世阿弥はこの下りのすぐ後のところで、「家を守り、芸を重んずるために、亡き父観阿弥の教えを深く心に刻み、その大要を記したもので、他人の目に触れて参考になることを意図したものでは決してなく、純粋に子孫のための家訓にすぎない」と記している。『風姿花伝』は、世阿弥が十代から書き残した観阿弥の教えをもとに自身の体験も含めてまとめたもので、観阿弥芸術論by世阿弥であるのに対して、世阿弥62歳のときにまとめたとされる『花鏡』は、より深くこの芸道の粋に立ち入った叙述が多く、世阿弥自身の円熟した芸位に基づく自身の芸術論の色彩が濃い。いずれにしても世阿弥の著作は「花」に始まり「花」に終わるもので、舞台を論じたものだから当然とする考え方もあるが、650年前、14世紀という西欧でルネッサンスが始まる少し前に、これだけ完成されたハピネス創出論が出来上がっていたことに驚きを禁じえない。 

世阿弥は、花を知ることが基本だとした上で、花とは何かを問う。それは単なる美しさではなく、驚き、新しさ、珍しさだという。これは、「偶有性(定番+驚き)」が脳にドーパミンを湧出させ、それにより人間がうれしいと感じる、という今日の脳科学の知見にぴったり一致する(茂木健一郎2007)。

650年前に世阿弥は脳科学の理論を直観的に見抜いていたのだろうか。
彼はさらに、どうしたら新しさ、珍しさを生み出すことができるのかを問い、物まね、十体、工夫といった概念を駆使してイノベーション論に入っていく。うれしさを前面に押し出し、それを実現するための方法論を展開する。その議論の深さと完成度の高さは感動的ですらある。 


■ 「目利き・目利かず」、「上手・下手」以外の上下はない:「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさん(貴賎一同に感銘を与える)こと」

世阿弥のもう一つのショッキングなメッセージは、いくら文化が花咲いたとはいえ、社会的上下関係が厳然とあった時代に、「舞台の前では貴賎なし」と言い切ったことである。これも花に譬えて、一房の花を見て綺麗だと思うのは誰でも同じで、その人の社会的地位や性別には関係のないことだ、と言うのだ。 

「たとへば上臈・下臈、男女、僧俗、田夫野人、・・・にいたるまで、花の枝を一房づつかざしたらんを、おしなべて見んがごとし。その、人の品々は変はるとも、美しの花やと見んことは、皆同じ花なるべし。」 (『花鏡』 幽玄之堺ニ入ル事) 

客の間に貴賎なしという主張は重要で魅力的あるが、彼はさらに進んで、客には一つだけ上下関係がある、それは「目利き」と「目利かず」の違いだ、と主張する。能の鑑賞眼の有無という違いである。能の為手の側にも一つだけ、演能の力によって「上手」と「下手」の上下が存在する。観る側も演じる側も、能の閉じた世界の中だけで能力が問われるという意味で、極めてデモクラティックな文化を前提としていたと言うことができる。

  この「目利き・目利かず」と「上手・下手」の二つの軸から四つの組み合わせが生じる。この点についての世阿弥の見解も面白い。

  上手は目利かずの心に相叶うことかたし。下手は目利きの眼に合ふことなし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の目利かずの心に合わぬこと、これは、目利かずの眼のおよばぬところなれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、また目利かずの眼にも面白しと見るように能をすべし。この工夫と達者とを窮めたらん為手をば、花を窮めたるとや申すべき。(『風姿花伝』 第五奥儀云) 

ここでとりわけ興味深いのは後半部分である。上手の芸を目利きが味わって、よい舞台になるというのは当然のことであるが、本当の上手は、心の工夫と技の練磨によって目利かずの眼にも面白いと映るようにできなければダメだ、と言っているのだ。初めから目利きの客はいない。客を選ぶことなく目利かずをも虜にすることによって次代の目利きを育て、長期的繁栄の連鎖をつくることができるようになるのだ。これは、ハーレーダビッドソンが二輪のベテランだけでなく、二輪未体験者、女性、子供たちにもイベントを楽しんでもらうよういろいろと手を凝らしていることとも符合している。 


■ 永遠の存続を目指す:「命には終はりあり、能には果てあるべからず」:
上でも少しふれたが、世阿弥は折に触れて家の存続を心配している。「能には果てあるべからず」とは非常に強い表現であり、今日の日本の会社はもちろん、100年以上続く世界の強いブランドでも、ここまではっきりと永遠の存続を目標として掲げている例はない。さらに学ぶべきは、「・・・を目指します」ということを言いっ放しにしないで、必ずそのための方法論をきちんと具体的に述べている点である。

永遠の存続のための方法論その一は、「初心忘るべからず」である。この言葉は、今日普通に使われる意味とは異なり、つぎのような二重の意味を持っている。一つは、未熟なとき(初心)の体験を反省し教訓として記憶しておきなさいという意味で、彼は『花鏡』の後ろのほうで「前々の非を知るを、後々の是となす」という先人の言葉を引用している。もう一つは、熟達したらそのことを忘れて自分が未熟な分野にチャレンジしなさい、という意味である。したがって、この言葉は、「《未熟》⇒《失敗》⇔《反省》⇒《熟達》⇒《未熟》⇒」という無限の進化のスパイラルを示唆しているのだ。
さらに、そのスパイラルは一人の個人の進化を生むところにとどまらないで、人から人に伝承し続けなければいけない、と主張する。 

初心を忘るれば、初心、子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。(『花鏡』 奥段) 

未熟なときの失敗の反省がなければ、その体験の教訓は自分の肥やしにならないだけでなく、子孫にも伝わらない。そのような教訓を逃さず蓄積して次世代につなげれば、大変な財産になるというのだ。 

近年、米国のハーレーダビッドソン、ドイツのメルセデス・ベンツ、国内では、トヨタ、花王、資生堂などが続々と企業ミュージアムをつくる、または、改装する動きが急である。成功例ばかりで、失敗の教訓が展示されない傾向にあるのは気になるところだが、それを差し引いたとしてもこれは、それぞれの企業の「初心を重代する」試みと見れないこともない。

永遠の存続の方法論その二は、教育論である。師をどうやって育てるかがきちんと論じられていて、体系としての隙のなさが伺える。組織の永続のためには磐石の人づくりが必須である。そのためには人を育てる人を育てるしくみが求められる。それについて世阿弥は『花鏡』の中で「習道ヲ知ル事」という1章を当てて熱く論じている。 


師となり、弟子となる事、おほかたを習うことは常のことなれども、師の許す位は、弟子の下地と心を見すましてならでは、許さぬ仔細あり。 

下地の叶うべき器量、一つ。心にすき(数奇)ありて、この道に一行三昧になるべき心、一つ。またこの道を教ふべき師、一つなり。この三つそろはねば、その物(師と許さるる位)にはなるまじきなり。 

ここでは、師匠となるべき資格が論じられていて、①下地=稽古と工夫に熱心である素質、②心=この道が好きで好きで堪らないこと、③師=いい師についていること、の3条件が整わないと師の位を授けてはいけない、としている。この指導者の条件は十分に具体的かつ説得的であるが、そもそも「指導者の条件」に言及すること自体、世阿弥の勘所のよさに強く感動を覚える。

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