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職業に占領された被害者の子供

教師や警察官の子供は、グレることが多いという見立てがあるそうです。
どうやら統計的なデータではなく、経験値的に教師や警察官の子供が非行に走る例を感じる人が多いのかもしれませんね。
本当かもしれませんし、意外性から来る印象の強さからの偏見かもしれません。
しかし、傾向というよりも実例はあるのでしょう。

私が思うに、社会的正義に対する反抗しやすくなる子供の問題ではなく、職業の影響が強い親のケースだと考えられます。
社会人になるとどうしても仕事をする時間が長く、その職業の意識でいる割合が高くなると思います。
本当はその職業の前にその人間であるはずですが、自分の考えの意識が薄い人は、社会の中の自分の意識に占められてしまうのでしょう。
だから子供と接するときに、警察官とか教師の見解の癖が抜けず、優秀な学生になるためとか(教師の視点)、社会に迷惑かけない人間になるためとか(警察官の視点)、そういう視点が多くなり、子供としてうっとうしくなるのだと推測します。


団子屋の息子が、毎日食卓に団子が出てたら、そりゃパティシエを目指します。
演歌歌手の母親から、こぶしが効いた説教ばかりを聞いた娘は、そりゃパンクで叫びます。

自分が職業に占領されてます。自分という人格が職業に飲み込まれてはいけません。
自分が薄いと、自称で自分が作られていってしまうのでしょう。
歪んだ自称も自分を歪めます。
自分をエリートだと思う人はその通り、鼻もちならないエリート風ふかしてるのでしょう。
自分を落ちこぼれた負け犬だと思う人はその通り、へり下る負け犬根性が染み付いているのでしょう。


昔から個人的に感じる、この悪い傾向の事例があります。
刑事裁判です。
被告人に対して判事から職業を問われます
そこに違和感があるのです。
会社員だと情状酌量する余地があるのでしょうか。無職だと悪意のある印象になるのでしょうか。
社会的復帰のための量刑なのかもしれませんが、職業で人間を測っている職業差別にならないでしょうか。
同じ犯罪に対して裁くべきで、上級国民だろうが、教師や警官だろうが、ろくでもない自由業であろうが、同じ量刑のはずです。
刑事裁判の被告にいる時点で、事実上の無職になる世の中なのだから、職業の前に人間を見るべきです。


私たち社会全体で、人を見る前に職業で人を見てるような世の中になってます。
そうだから自分も、会社員だからとか、パートだからとか、自分を狭めて定義してしまいます。
私たちは変数です。
自分=職業ではなく、
自分=X、です。
y=axのように、すべては抽象度が上がる関数のように、職業のような縛られた自分ではなく、与えた変数のまま無限に相関する結果になるはずです。

あなたは、ただのしがないサラリーマンだけど、何かを生み出すクリエイターです。
あなたは、ただのレジ打ちのパートおばさんだけど、世の中を幸せに変える天使です。
ある日突然、宇宙人がその気質を持つ人を探して見つけるかもしれません。
心の準備しておかないと、来てからでは遅いですよ。

団子屋のオヤジのところに宇宙人が現れ、あなたは救世主ですと言われたら、社会の悪を捏ねに捏ねて串刺しにして美味しく仕上げないといけません。
あ!、それじゃあ職業に縛られてますね。

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