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「嫌い」にフタをすると人生の迷子になる

数年前に、あるセラピーを受けた。
身体の感覚からアプローチし、トラウマや思い込み、ビリーフ(信じ込み)にアプローチをするというもの。
そのセラピーを受けて、全く自覚していなかった驚きのビリーフが判明した。
「嫌いはダメ。嫌いがあったらいけない」
というもの。

今でこそ「いやいや、聖人君主じゃないんだから、嫌いがないとか無理でしょ」と普通に思える。
しかし、その時はセラピストから
「どうして嫌いがあったらいけないんですか?」
と訊かれても、
「嫌いがあるのは良くないことだから!好き嫌いをしてはいけないから!」
と、まったく理由になっていない理由を繰り返し、かなり強くその思い込みを握りしめていた。
(もっとも、「ビリーフ(信じ込み)」というのは、そんなふうに無自覚に、そして論理的な理由なく強く握りしめているものなのだろうけど。)

私がそのビリーフを持つに至った理由は、セラピーの後半で判明した。
とても簡単な話で、子供の頃、親や学校の先生から「好き嫌いをしてはいけない」「みんなと仲良くしなくてはいけない」と叩き込まれてきたから。

セラピーの最中、幼稚園と小学校が同じだった近所の女の子のことが出てきた。
彼女はなぜか私のことが好きだったようで、いつも私にくっついてきた。しかし私は本当は、彼女のことがあまり好きではなかった。
男子の前と女子の前で態度を変えるし、大人の前ではさらに態度を変える。そしてブリッコだから、なんか好きじゃない、と思っていた。
そんな彼女は、他の女子にあまり好かれていなかった。
それもあって、「好き嫌いをしてはいけない」ビリーフを持っていた私、つまり彼女とも普通に接していた私にくっついてきたのかも知れない。
私は、彼女と一緒にいながらも、時々「うぜー」と思っていた。そして、そう思ってしまう自分に対して「なんて意地悪なイヤな奴なんだろう!」と、自己嫌悪し、罪悪感を感じていた。

「嫌い」にフタをすると人生の迷子になる

「嫌いがあったらダメ」ビリーフについては、そのセラピーのおかげで手放すことができた。だから今は堂々と「あの人は好きじゃない」と言える。
人に対しても、モノゴトに対しても、自分の中の「嫌い」と感じる気持ちを大切に受け入れることができるようになった。
そうなってみて思うけれど、「好き嫌い」は本当に大事だ
なぜなら、「嫌い」を否定していると「好き」が分からなくなるから。
そして、自分の「好き」や「嫌い」が分からないということは、本来の自分を見失っているということだから
本来の自分を見失う、つまり、自分がどうしたいのか分からない。
どう生きていきたいのか分からない。
自分が何を求めているのか分からない。
何をしたいのか分からない。
自分にとっての幸せが何なのか分からない。...etc
人生の迷子の完成である。

そうならないためには、「嫌い」を否定しないこと。
「好き嫌いバンザイ!」の精神で、嫌いなものは「嫌い」とハッキリと、軽やかに、認めること。もちろん、罪悪感なんて必要ない。
「嫌い」と言うことは、嫌っている対象を否定したり、攻撃していることではないのだから。
「納豆嫌い」と言っても、別にそれは納豆の存在を否定しているわけではない。単に、「私は納豆が好きではない」と言うだけのこと。

私がアメリカに来てから、自分を見失い、メンタルの調子を崩したのは、自分に「嫌い」を禁止していたから、というのも原因の大きな一つだと思う。
今でこそアメリカの文句をブーブー言っているが、最初の頃は
「パートナーに説得されたとはいえ、自分で選んできたのだから、アメリカの文句は言ってはいけない」
「アメリカの文句を言うと、パートナーの機嫌が悪くなるから、アメリカを嫌ってはいけない」
「アメリカの良いところを見よう」
「どんな環境でもポジティブな面を見て、ハッピーでいられる人間でありたい」
と、頑張っていた。
そうやって、「アメリカ嫌い」「この街のマネー至上主義嫌い」「車社会嫌い」という自分の本音にフタをしていた。
だから、自分の好きも分からなくなり、喜びも分からなくなり、自分の本音(=本来の自分)とのつながりが切れ、その結果、生命エネルギーも下がり、メンタルを病み始めたのだと思う。

汚い例えで恐縮だが、「嫌い」や、一般的にネガティブと言われる感情にフタをすることは、オナラや便を我慢するようなものだ。
「臭いから」「汚いから」と言ってオナラや便を我慢し続けていたら、病気になって、最終的には死んでしまう。
人間、生きてるんだからオナラや小便、大便出るのは当たり前(と言うか、出ないと大変)。
汚くても、臭くても、それも大切な生命活動の一部。
むしろ、それら排泄物により健康状態さえチェックできる、とても有難いもの。必要不可欠な、大事なもの。
同じように、「嫌い」やネガティブと言われる感情も、生きていれば当然出てくる、大切な生命活動の一部。それにより、今の自分の状態がわかり、「本来の自分とは何者か?」が分かる、とても有難い、必要不可欠な大事なものなのだ。

だから、物質的な排泄物も、精神的な排泄物も、臭かろうと、汚かろうと、フタをしたらダメ!絶対!
そして、『どんな時も、どんな時も。私が私らしくあるために。嫌いなものは嫌いと言える気持ち、抱きしめて』いることが重要である。

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