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旅館を営む祖母から教わった料理のいろは

私の祖母は98で亡くなるその日まで台所にいた人でした。

小さな旅館を営み、お料理を作り、出し続けた祖母の日々、そんな思い出と教えてもらった料理の盛り付けのコツをみなさんに少しお裾分けします。

台所は私の遊び場だった

物心ついてから、祖母と伯母(母にとっての義姉)の仕事場である旅館の厨どころは私の遊び場でした。母は祖父の植木センターを手伝っていたので私はお台所でお留守番していたわけです。

そこは大工だった祖父と伯父が上手に細工して、壁面には大きな食器棚があり、たくさんの食器がありました。今もいくつかの食器を思い出すから不思議ですよね。真ん中には大きな長方形のテーブル兼作業台があり、左右は引き出しと引き戸の戸棚がついていたのをよく覚えています。そのテーブルの周りで鬼ごっこができたくらいですから大きかったんですよね。

テーブルはアルミで覆われていて、厨房の台のようでした。広い流しは魚や野菜を洗うところ、その上にあるつり台にはずらりと包丁が並んでいました。

小さなころから祖母の料理をするところを見ていたので、包丁にはたくさんの種類があることを知っていましたが、そのすべてが普通の家庭にはないと気づいたのはずいぶんあとになってからです。それでも、嫁ぐときに、菜切、出刃、と2つ持たせてもらって、大活躍しました。祖母のところには出刃包丁も三つくらい種類があり、菜切包丁、刺身包丁、柳刃、薄刃と取り揃っていました。祖母が包丁を使うのを見ているのは本当に楽しかったです。

ガス台も広かったし、ガス釜も大きくてそして長年、使い込まれた台所の柱は濃いはちみつ色をしていました。勝手口は木戸で、たたきとつながっていてかまどが残っていましたし、私がごく小さいころは人寄せ(人が集まるとき)にはかまども使っていたような記憶があります。ガラス窓は少し濁ってゆがんでいたから、差し込む光がなんだか優しく、幼いころの思い出はあの旅館のあちこちにあります。私の感性はあそこで育ったといってもいいと思いますが、特に台所はその場所でした。

なんといっても、私は本物の野菜のしっぽやいらない葉っぱをもらって、小さなナイフや食器を使って、おままごとをしていたのですから、楽しいに決まっています。退屈したら、祖母に50円もらって、すぐ裏の駄菓子屋さんにいったり、シャボン玉をしたり、屋根にのぼったり、温泉に入ったり(笑)

そして私は嫁ぐまでずっと、祖母と伯母のところに入り浸っていました。特に高校生までは毎週のように行って、お花を生けたり、おそうじや洗い物を手伝ったり、自分の家よりずっと好きだったかも。母が口うるさく厳しかったので、あの二人のところで息抜きをしていたのかもしれません。

嫁ぐ日が決まってそれは海外だったから

元の夫は日本人ですが、当時、アメリカに駐在していたため、嫁ぎ先はニューヨークでした。祖母は相当さみしかったと思いますが、明治の女でしたから、気丈で泣き言はいいませんでした。おさかなのおろし方から、お刺身の作り方から、煮物の盛り付け、すし飯の作り方、野菜の飾り切りといろいろと突然教え始めたのが不思議です。実はそれまで、教えてくれなかったんですよ。この祖母の娘である母は、やっぱり血筋なのでしょうか、料理のセンスがあるので、私だけがごくごく普通のセンスしか持っていなくて残念でなりません。母は器が好きで盛り付けもとても上手。真似してもなかなか同じようにはなりません。

前置きと思い出話が長くなってしまいましたが、その時に教わった料理のいろはをご紹介します。

料理のいろは

料理というより盛り付けのいろはになっています。この3つの教えだけは口を酸っぱくして言われました。

🍅料理の盛り付けは必ず菜箸をつかいなさい

これは菜箸を使って盛り付けをするとわかりますがきれいに盛り付けられます。細かいところが。ざっくりとした土物のどんぶりに煮物をもったりするときにはお玉やおしゃもじをつかいますが最後に菜箸で手直ししなさいと言われました
🥕立体的に盛り付けなさい

どんぶり(大きくても小さくても)や椀物のときは中だかに。お皿に盛るときも、ぺったんこにならないように、立体的に盛り付けるとおいしそうに見えます。
🥬必ず、青物を添えなさい

これは当たり前といえば当たり前なのですが
日本食は彩りが茶色っぽいものが多いです。
お醤油をつかうせいでしょうか。
かならず青物を添えなさいといわれました。その際は、一緒に煮ないで、最後に散らすこと。煮たらせっかくの美しい緑が台無しです。さやえんどうやいんげんは煮物、木の芽、茎付きのショウガは焼き物、お刺身にはしその葉や実、そんな感じです。時には庭の葉っぱをつかうこともありました。

ここからは料理のいろは

味が濃くなったら(煮物)酒を差しなさい
煮物などしていて味が濃くなると、つい砂糖を
入れたくなりますが、それだとまた醤油を入れ
と悪循環です。お酒を差すように言われました。必ずひと煮立ちしてアルコールを飛ばします。
レンコンはふたをしない
レンコンをしゃきっとさせたかったらゆでたり
煮たりするときにふたをしてはいけません。
ふたをすると歯ごたえがなくなります。
逆にくったりさせたいときにはふたをします。
青物はさっと湯がいてさっと冷ます
青物は祖母にとってなによりも大事なことでした。インゲン豆やさやえんどう、ブロッコリーなどはゆでるときはさっとゆがいて、ざるにさっとあげてさっと冷まします。葉物野菜は、水にさらしてあくを抜きましょう。

皆さんもご存じなことばかりかもしれませんね。これからお料理に挑戦しよう!とする方にはぜひ参考にしてくださいね。青物はかなり言われましたから、私は必ず添えるようになりました。

最期まで台所にいた祖母

祖母は今から19年ほど前に亡くなったのですが、晩年外出を一切しない人でした。庭に出るのも嫌がりました。もしも転んだら、骨折したら、と自立できなくなることをとても嫌っていて、また怖がりでしたから、他界する寸前まで「死ぬのが怖い」と言っていました。

そんな祖母が、私が出産して実家に帰ってきているときに、タクシーに乗って会いに来てくれました。家族一同驚きを隠せませんでした。でかけるなんて!!と。そして、娘を抱いてくれました。写真が残っていて、それはもちろん宝物です。私は産後のホルモンバランスも手伝って、その時泣いてしまったのですが、実は母も従姉もみんな泣いていました。

他界する1週間前まではっきりとしていましたし(認知症はなかったので)寝付いたのも本当に最後ひと月あまりのことでした。その1週間、お薬のせいもあり、うつらうつらしていたのですが、つきっきりだった母がいうことには、ずっと台所にいたそうです。病院のベットの上でしたが、祖母はまるで台所にいるように、母に「ざるをとって」とか「冷蔵庫から魚をだして」とかいいながら、料理をしていたそうです。祖母らしいなと思います。

そしてもうほとんど食も進まなかったのですが、「ピースの煮たのが食べたい」といったそうです。エンドウ豆の甘じょっぱく煮たもので、母は冷凍してあったエンドウ豆でそれを作って食べさせたといっていました。おいしいと言いながら食べたそうです。

明治に生まれ、因業な性格の祖父に苦労させられた祖母。旅館を営むのに忙しく、男兄弟の中のたったひとりの女の子だった母は全くかまってもらえず、女の子らしい遊びは兄のひとりが教えてくれたと言っていました。
料理番組でみたステーキを作ってみたり、老舗のすし屋に通って味を盗んでみたり、生きていく力の強い人でした。

もう亡くなってからずいぶん時間が流れたというのに、なんだかまだすぐ近くにいて、私の話を聞きたがっている気がします。いつか必ずまた会えると思いますが、まだもうしばらく会いに行けそうにありませんから、お土産話はたまる一方です。でも、その時には

「全部空の上から見てたよ」と
いたずらっぽく言うにちがいありません

🍐

祖母の作る料理はほんとうに美味しく
そしてきれいでした。
家庭料理がもとですが、工夫もして、
庭の葉も使ったり器を選んだり。

そして同時に食べるということは
祖母の原動力だったとおもいます。


美味しく食べる
美味しく食べさせる

それが祖母の生きる力だったと
いろんなことを思い出すたびに感じます。

たべること
美味しく
楽しく

わたしもムスメも
その血を脈々と受け継いで
今日もおいしいものを探しています。

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