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ユートピア的ディストピアの構築

そうですね。世界は私たちの前に、広大なキャンバスのように広がっています。そのキャンバスには、明るい色と暗い影が交じり合って描かれています。
理想の未来、ユートピアはまるで遠くの星のように輝いています。その星を目指して、私たちは日々努力を重ねています。しかし、その星はいつも届かない場所にあり、私たちは完璧さを求めるあまり、少しの進歩を見逃すこともあります。
一方で、ディストピアは暗い雲のように、時折私たちの心を覆い隠します。社会の問題や個人の苦悩が、私たちを悲しみや不安に包み込むこともあります。しかし、その雲の向こうには必ず光が差しています。
私たちは、その光を探し求めて、前に進むことが求められています。ユートピアの輝きを目指しつつも、ディストピアの影を受け入れ、改善への努力を怠らない。そのバランスが、私たちの成長と社会の進化を支えるのです。
ですから、私たちは希望を持ちながらも、現実を見据え、小さな一歩でも前進し続けることが大切です。理想と現実、明るさと闇が交じり合うその場所で、私たちは新たな未来を築いていくのです。

ChatGPT

ユートピアとディストピアは一見大きく離れた存在のように思われがちだが、実際はとても近い存在としてみられることが多い.多くは我々の思考的な違い性があるが、他にはイシューに対する拒絶感や対抗心的な感情の起伏が関係していることがある.僕らの意識はパラダイムを飛躍させることが目的として21世紀があると思っているのだが思った以上にユートピア的な思考人材とディストピア的思考の人の間に大きな隙間が開き始めていると感じる.そこをどうやって埋めていけばいいだろうか.はたまた情報遮断によって断つこととすれば良いのか.はたまたその間に立って媒介するキカイが欲しくなるのか.

LeoSUGIMOTO

今思えば僕らの質量世界と仮想世界とのユーザーインターフェースはほぼ見えないほどに薄れてきている.ジャロン・ラニアーによってVRの世界が想像され始め、意識はVR空間に移住し始めようとしている.特に今の世界が性別的な思想や宗教や人種をルールベースでのフラット化を目指している現状を見るとこの話は虚言ではないように思えてくるはずだ.

しかしそこで考えかなければいけないのがユートピアの世界とディストピアの世界に僕らはどうやって向かい合うべきなのかという考え方だ.今の社会を考えると今後の社会の中心になるのは人間ではなくAIになるはずだ.人間はネコになりAIに飼い慣らされる存在になる.その世界を浮薄として捉えるのか諾う現実社会として理解するのか.最近の話題だとテクノフォビアが有力なカギになってくるだろう.

科学に対する恐怖心から自分から社会との通信を遮断してしまおうとする人間だ.将来アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」と同じようなディストピアの世界を待つのかもしれない.結局この話の中では超人類と低層の地球の人間との交信は断絶してしまった.古典的な思考を大事にする古典的ヒューマンとデジタル社会に適応し始めるデジタルヒューマンの対峙である.

僕はその世界を望んでいない.でも起こりえる可能性は大きいように最近の社会の反応を見ると感じる.デジタルに支配されることへの恐怖心.仕事が代替されることへの不信感、不安感.僕はこの間にプロトピアのような楽観視をしたくはない.人間(古典的観念を持った人)と人間(デジタルの観念を融合させた新人類)を媒介するからキカイ(両方をいい方向に持っていこうと情報を共有する存在)が必要になってくると感じる.

バベルの塔のように人類社会は世界中に散らばり人は互いに違う言語で生活圏を構築してきた.しかし時代は21世紀だ.インターネット技術の大幅な技術革新によって世界は再び一つになった.僕らの待つ世界はユートピアなのかディストピアなのか.そこに眠るのは僕らの思考的な変化から生み出される技術革新に違いない.

今後、その技術革新を支えるキカイに僕らは無責任で豊満でヤンチャなネコとして飼い主に反抗してみよう.一人一人の思想を汲み取って新時代の階段として登り始める21世紀、エアコンが壊れて死にかけている某日より.

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