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ちょっと死生観ってなんだろうって話

ちょっと前に僕のひいお婆ちゃんが亡くなって今年に三回忌を迎える.僕は死を知ってから少し考えるようになった.そのひいお婆ちゃんはあまり接点はなくて、毎年新年の挨拶に顔を合わせる程度の関係性だった.

多分名前は知ってるしたまに話す程度の関係性を持った人の方が接点としては少し強いかもしれない.でも今回の訃報を聞いて僕は少し涙がでた.人は余命という限られた時間の中でした質量のある世界で身体性を伴った行動を起こすことができない.

当たり前の話なんだけど「いざ自分が」と考えると今でもありえないほどの巨大な虚無感と不安と恐怖に押しつぶされると思う.僕が小学生6年生の時に「死ぬ」ことについてありえないほど考える時期があった.

なぜか毎日お風呂に入っている時と寝る前の布団に入った瞬間にその時が訪れた.僕は「宇宙の終わりを見届けられないんだろうなぁ」.「僕が死んでも全員が死ぬ訳じゃないからなんかずるいな」なんてことを毎日自分の中に潜むナニカと戦ってた.

ちょっと経って中学3年生の時だったかな.あんまり覚えてないけど.ちょっと自分をかなり俯瞰的に見る時期が続いた.俯瞰といっても自暴自棄に近い形での俯瞰でノイローゼ気味と言われれば正解かもしれない.毎日デジタル日記に遺書のようなものを書いて残していたのを思い出した.

別に急死すると思ってはなかったし事故に遭わなければ死なない.でも何故か書きたくなる.そこは思春期というか成長期というか、若気の至りみたいなところだったのかもと今も俯瞰する.

でもその時期を乗り越えたら自然と「自分は死ぬ存在なんだ」と理解できるようになって自然と受け入れようとし始めた.僕も思った以上に自分が受け入れやすい人間なんだと驚いた.今でも深く考えると怖いと感じる時はあるけど、深く考える必要はないし、自分が生きたいように人のため、社会のために生きればいい.

死生観はもうちょっと後で考えればいいのかな.と思ってる.

多分僕はそのうち書いたことも忘れて何もかも思い出せない人間になる.これからの将来脳に無限のデータを刷り込んで使いまくって使い物にならなくなって、終わりを迎える.

ちょっと嬉しいなって思ったのはこの世にデータは半永久的に保存されているということ.今日書いたことを僕は忘れてしまってもデータとして残ってるからいつでもその余韻に浸かることができる.

文字データと写真データが存在し僕という人間の証明道具になる.今僕は21世紀の住人として居座ってる.自分の生活に毎日テロップをつけて頑張って生きてみる.ちょっと反省して繰り返して反芻する毎日.人間が文政社会を築いて生きることを理解できた.その感動は今も感じられる.

そんな風に死生観を考えた21世紀の暑くてどうしようもない某日.

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