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共同体の失われた社会


私たちの日本。私たちの地域はここ数十年間で大きく変化した。

21世紀に入ってから、加速したインターネット技術による副産物。

SNS,ソシャゲといった人間のアイデンティティを大きく揺るがす媒体が出てきた。

人々は他人との現実世界でのコミュニケーションを嫌がり、常に仮想空間世界での生活を求めるようになったこの現代社会。

実際に街中に出れば歩く人、電車に乗っている人、コーヒーを飲んでいる人。誰もが手元に四角い何かを持つようになった。

その四角い箱は我々人間を引き寄せ、ユートピアの世界に誘惑してくる。

そのユートピアの世界では年齢問わず誰もが自由に発言して仮想空間の中でのつながりを深めようとしている。

本当に可哀想な世の中になったと私は俯瞰している。

現実世界でのコミュニケーションができないから、SNSといった仮想社会に逃げているだけじゃないか?ただそれだけの事である。

しかしこの問題は思った以上に難題であり、深刻すぎる課題なのだ。

今回の記事のテーマとなっている「共同体」それが失われようとしている。

意見どうでもいいような他人事として捉える人も多いだろうが、それは違う。

共同体が失われるということは思った以上に深刻である。


あなたには助けてくれる人はいますか?

私は友達にこんな質問をしてみた。「いざとなったときに助けてくれる人はいるの?」

答えは「NO」だった。まだ16歳だから無理もないかもしれない。

しかしこの記事を読んでいる、あなたはどうだろうか?あなたにはいざとなった時に助けてくれる友達、親友はいるだろうか?

会社からクビになったとき。SNSで炎上してしまったとき。

そんなときに助けてくれる仲間はいるだろうか?

少なくとも「居る」と答えられる人は残りの人生は何も心配しなくていいだろう。

それは「孤独ではない」ということを指す。

孤独ではないことは心に余裕ができる。

しかしそうではないと答えたあなたは今すぐにでもSNSがディアクティベートすることを薦める。

これはSNSに限ったことではないが、まずは外の世界に飛び出すことを薦める。

私の思う1番の恐怖は「孤独」である。

「孤独」は「0」である。

ここにマイナスが足されれば必ずマイナスになる。

このマイナスが蓄積された時あなたは何もできなくなる。

絶望を感じる。劣等感を感じる。死にたいと感じる。

そうなればプラスに戻ることは困難極まりない。

そんな人が最近増えているというか実感する。

特にSNSでよく感じる。


SNSは悪

中にはSNSのおかげで助かった。SNSの中で友達ができた。

そんな人もいるだろうが、その友達は助けてくれる?

それを聞きたい。

SNSをコミュニケーションツールの一つにして実際に会って友達になるのはいいかもしれないが、SNSの中だけで友達になったと幻想を抱いているのは「あなた」だけある。

要は病気である。

処方箋の存在しない末期の病気である。

一つあるとすればSNSから完全にディアクティベートし、遮断をすることだ。

いくら見方を変えようとしたって今まで根付いてしまった見方を変えるのは簡単にはいかない。

だったら遮断をすればいいのである。

そしてSNSを使っている人間たちを俯瞰していればいいのである。

街中でずっと下を向いて歩いている人間たちをバカにすればいいのである。
自分は前を向いて歩けばいい。

そして前に見えるチャンスを掴めばいい。

共同体の失われた社会

今回のテーマである「共同体の失われた社会」

これを具体的に解釈していくと先ほど話した「孤独」に直結する。

共同体が薄まれば地域内での関わりが減っていく。常に自分ファーストで自分で問題解決しなければいけない。

この「孤独」に例を挙げてみる。

1番印象に新しいのは「安倍晋三暗殺事件」だと思う。

この事件の容疑者である山上容疑者は父親を早くに亡くしそこから始まった母親の教会への寄付行動。

兄は自殺をして弟の山上容疑者に少しでも楽にさせようとするが、これも母親による教会寄付で消えてしまう。

何度も国にコールするも国からのレスポンスは何もない。

そこで見た安倍氏の映像。

殺意が芽生えるのも無理はない。

しかしこの事件は未然に防げた事件である。確実に

元から国が山上容疑者への支援があれば防げた事件である。

これは結果論にしか過ぎないかもしれないが、国が国民へレスポンスできていない問題の事例として挙げられる。

これ一つの限らず秋葉原事件でも同じである。

「孤独」を感じなければ防げる事件は存在する。

そこに気づかなければいけない。

しかしこの安倍氏の暗殺事件をキッカケに起こったのはマクロの視点での問題だった。

政治と宗教の関わりの問題ばかりがメディアに取り上げられ、ミクロの問題である「孤独」について取り上げられない。

必要以上に宗教団体を誹謗中傷しデマを流す者まで現れた。

SNSは逃げ

先ほども述べたがSNSはデマを流す人間で溢れかえり、情報でサチっている。

何が本当かもわからない情報に噛みつき、有る事無い事を書き上げる。

それがSNSである。

そしてそれを見た私たちは勝手に妄想している。

見たい情報だけをピックアップし、自分に不利な情報は遮断する。

それが可能なのがSNSである。

今回の宗教問題もそうだ。

宗教関連の悪い情報しか求めず、中にいる本当に心の助けになった人たちのことは何一つとして考えない。

中には宗教によって助かった人が大勢いるが、宗教によって苦しまされた人間の情報しか集めず宗教団体へ批判をする。

そして作られた「宗教」=「悪」という等式。

本当にカッコ悪い。劣化している、

メディアによるマインドコントロールに近いかもしれないが、メディアは今まで新聞とテレビを使ってきた。

しかし今の時代はスマホで情報はいくらでも引っ張ってこれる。

しかし誰もしようとしない。


行き着く果て

この共同体の行き着く果ては紛れもなくノータリンの集まりである。

何も考えず、ただ批判をするウンコマシーン製造機である。

共同体が失われることはリーダーがいなくなった戦地と同じである。

そこにリーダーがいれば「君は○○をするといいよ」「君は○○の考え方だけどこっちの考え方もできるんじゃないかな」と導いてくれる。

昔に存在した「床屋政談」「井戸端会議」である。

しかしこれが失われた社会は何もできない。何も生み出せない。

全員が路頭に迷うことになる。もう始まっているかもしれない。


対策構築

この問題に対して「私たちは何ができる?」「なんの対策をすればいい?」

簡単である。まずは自分は「頓馬な人間」であることを認識することである。

そして答えを求めることである。

知識人に答えを求めようとすることである。

ノータリンがいくら頑張って考えても答えはノータリンの答えである。

だったら知識人へ答えを求めればいい。

そして自分がいかにノータリンだったか気づくといい。

そしてSNSから抜け出せばいい。

SNSには自分のようなノータリンの集まりであることに気づくだろう。

「ここではダメだ。」

と気づければあなたの勝ちである。

外の世界でコミュニケーションをとってみればいい。

徐々に周りに人は集まってくる。

本当に助けてくれる友達もできてくる。

共同体とは作り出す者ではなく、徐々に作られていくものである。

まずは外の世界と関わりを持つ。これがあなたにできる最高で最大の対策である。

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