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「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚空」無我の境地

 人は意識する。何故、意識するのか。

自我。他人。社会。環境。あるいは人生の意義。

それは生に執着する心の顕。

様々は知っている。意識は浅はかで、都合がよく、とても儚い。

手に溜められた一掬いの水に自分を映すようなものであると。

時間と空間の支配の顕。

一心は、それを淘汰する。


 今年に入り虚空をどれほど吹禅したでしょうか。純粋に尺八と向き合いたかった。そして、どれほど自分が尺八を愛しているのかを知りたかった。ただそれだけだったのかも知れません。

 今年1月から「禅の響 -ZEN no OTO-」を形にし始めて、3月には新型コロナの影響がすぐに私の生活にも影響を与えました。しかしながら、なぜか昨年中には、コロナ禍を予期してかどうかはわかりませんが、既に準備に入っていたように思います。古き良き日本の文化を形を変え過ぎず、美しく洗練に見せる。究極に自分自身も削いでみようと思いました。

 この虚空という曲は一心不乱に吹く事により、自我を忘れ無我の境地に達する「虚空」を体現するための曲です。頭で吹く事もなく、意識する事もなく。まだまだその境地には達していないものだなと思い、日々、吹禅に徹していました。

 時間の存在といえば、私は人生幾度と、私というものはなんなのか。個という存在と全という存在を何度も昇華させ、泣き、叫び、嗚咽し、絶望し、答えが見つかったと思えば、また手から消えていく。そうした作業を行っています。現時点では今という時を大切にする事しかできなく、また今が変われば、過去も変化し、時間というものは、それ程、長さも深さも必要ないものかも知れないと思っています。

 存在意義といえば、人は自分の立場からしか判断できない愚かな生き物です。地球環境が悪化しても地球がおかしいと言い続けている哀れな生き物です。人間そのものの生き方の方が異常なのにもかかわらず。

 自分の立場を忘れるくらい没頭するものができた時、それは自分が起こしている現象ではなく、他者であったり、もっと違うものが起こしている現象と気がつきます。

 自分自身が起こしている事象など、一つもありません。

 「虚空」はそうした気持ちをふと思い出させてくれる曲です。

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