工藤 煉山 Lenzan Kudo

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工藤 煉山 Lenzan Kudo

尺八演奏家。 Lenzan Art production 代表 HP: https://www.lenzan-artpro.com/ 多ジャンルで活動していますが、一方で江戸時代に普化宗の禅僧が演奏した古典本曲をライフワークとし、音楽を通して禅の精神と身体性を伝えています。

マガジン

  • 禅の響 - ZEN no OTO-

    「禅の響 - ZEN no OTO -」は2020年10月から始動した年4回行われるコンサートです。 ここに、言葉と音のアーカイブを残します。 尺八の音は音楽ではない。   江戸時代、禅の僧、普化宗の虚無僧のみが持つ事を許された法楽器「尺八」。その曲は古典本曲として全国の禅寺に口伝として受け継がれてきました。本曲は、口伝そのままの形を継承されていくというよりは、「守破離」として形が時代時代で変化していきます。  工藤煉山のseries 「禅の響 - ZEN no OTO -」は「守破離」の中で、自身の禅の哲学と融合し、自分の心から素直に発生される「唯一無二の音」を見つける旅のプログラムです。自ら、竹林に入り竹を取り、尺八を作る。命とは何か、在り方を追求した吹禅を是非お聴きください。 ​

  • 尺八の教室

    尺八を習って見たい方、また上手になりたい方、必見の内容です。 尺八の事はもちろん、他の楽器にも繋がるお話が満載です。 習慣のルーチンでしている事、呼吸法や身体的なお話もしていきます。 初回、第1回目は無料で読む事ができます。

  • 心象 - shinsho -の物語

    日常。 繰り返される大切な時間。 考える事であったり、 人であったり、 触れるものであったり、 食べるものであったり、 ​そうした無限な大切を綴ります。

最近の記事

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My Work

演奏、アートディレクション、作曲等、承ります。 コンタクト:https://www.lenzan-artpro.com/contact ■アートディレクション 禅の音 SARUME 新宿御苑 「菊花壇展ライトアップ」演奏&演奏時の演出担当 ■作曲 作曲リスト ■コラボレーション + Ryuichi Sakamoto 時光 Jiko [ series - " incomplete "] ■ワークショップ 竹を取り、作り、吹く。年間ワークショップ ■講演

    • 「禅の響 -ZEN no OTO- | 有時 」365日✖️生きている歳だけ

      日々は繰り返される。 時が制約され命を渡された時から、それは始まる。 どうすれば、この理から抜け出せるのか。 この苦しみは輪廻として続くのか。 しかし、その小さな枠組みの理もまた、小さな有時でしかなく、 また大きな有時が永遠に続くだけのことである。  眠りにつく時、いつも時間の概念がなくなる瞬間を怖く思う。本当は知っている。無意識として繋がる事が、命の役目である事を。それを身体が真っ向から拒否するのだ。  朝、目覚めた時、この時間という制約にいる事に心地よさを感

      • 「禅の響 -ZEN no OTO- | 越後三谷 」矛盾を愛せよ

        心に響く、言葉、音、感覚。 そうしたものは、遠くに響く鐘や琵琶の音色のようだ。 富士を毎日のように見る時、晴れやかであり、曇りであり、嵐である。 その一つ一つも、また心に響く。 大きく偉大なものでさえ、多くの矛盾をもつ。 その矛盾は美しい。 私達が知る多くの矛盾を知る事は、この世界の理に等しい。  一つの心を知ろうとする時、良い一面だけを見ようとするのは、人の習性なのだろうか。それとも現代人の習性なのだろうか。  その人を知ろうとした時、臆病になる事や、虚勢を

        • 「禅の響 -ZEN no OTO- | 真蹟 」音という筆跡

          送り出す 心預けた人 この世で一番、尊敬をした人 全てを知っている人 心は波打つ  11歳の頃、尺八を初めて教わった先生が亡くなられた。子供の頃の自分、青年の頃の自分、成人し社会に出る自分。尺八を通して色々と教わった。  あの頃は、正座も慣れておらず、稽古に行くだけで苦痛の日々だった。正直、音に惚れていた私は、尺八の古典の面白さもわからず、さぞ先生は苦労されただろうと思う。このような不甲斐ない弟子を誇りに思ってくださっていた事、また何も恩を返す事ができないまま、お

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        • 禅の響 - ZEN no OTO-
          23本
        • 尺八の教室
          1本
          ¥300
        • 心象 - shinsho -の物語
          9本

        記事

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 鑁字 」道理なんてクソ喰らえ!

          自分を納める。 その器を自分で作る 作る手には年月がかかる。 納まるにも時間がかかる。 道理は器に納まる事でわかる。 納まりきらない矛盾と共に。  鑁字(ばんじ)という曲を吹禅するにあたり、この曲は本当にお経のようだと思いました。集中して吹くと、それはもう、どこにいるのかわからなくなるくらいでした。まさに「空」の状態です。曲を勉強するにあたり、もう芸術であるのかないのか、こだわりもなくなり、一つの壁を超えた気分になりました。より深い自然の音への習得。  そうした

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 鑁字 」道理なんてクソ喰らえ!

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 息観 」2万7000回の呼吸

          息をみて 息をみて その人をみて 自分をみて 姿をみる  人間が1日どのくらいの呼吸をしていると思いますか。だいたい2万7000回だそうです。では皆さんは2万7000回のうち、どれだけ呼吸を大切にしていますか。実際には無意識に行われていますから、とても難しいでしょう。  僕は尺八を教える時、尺八を長い時間練習するよりも、日々の生活を丁寧にした方が上手になると伝えています。それには理由があります。その前に、皆さんは何か大切にしているものはありますか。物でも人でも言葉

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 息観 」2万7000回の呼吸

          「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」遊んでいたい

          一つの終焉  今回のEpilogueは自分の知識で作らない音を求めました。それが、なかなか難しい。考えてしまいますし、音が出なくなるのも怖い。吹禅の最中に気が付いたのですけれど、そうした気持ちを外すのは、楽器と対話する事と遊ばせる心でした。  僕にとってもは、とても苦手な事ですが、遊び心というかユーモア、そして、それをしてみる恐れない心。そうしたものが新しい音であったり、世界観を作っていくのだなと思えました。  演奏後に記憶が過ったのが、小学生の頃の遊びでした。小さい頃

          「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」遊んでいたい

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 回向 」青く赤く

          心は穏やかなままで過ごす事は出来ない。 生きる事は荒々しい。 それが活力であり、一つの道標でもある。 日々、一日の終わりに、今日はどれだけ苦しんだか自問自答する。 生きる荒々しさの先に初めて安らぎを知る事ができる。 もし、あなたが安らぎを必要としているのであれば、 より一層苛まれる事だ。  コロナ禍になり、より一層思う事は、生に執着する事です。まだ出来る事があると歯を食いしばりながら生きる。誰かのせいにも、誰にどう思われるのでもなく、しっかりと自分の足で生きていく事。  

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 回向 」青く赤く

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 三谷清攬」のらりくらり

          自然を制覇したと酔いしれる人間よ。 それが、どれだけ浅はかな行為か知っているであろうか。 自分に喜びを与えるのではなく、 他人に喜びを与えるのではなく、 自然に喜びを与えよ。 もっと感謝せよ。 そうすれば、繰り返される些細な四季の変化だけであっても、心は十分である。 多くを求めず、じっくりと生きよ。 大切なものは、いつも手の届く範囲にあるものだ。  ここのところ、本当に強く、こうした思いを感じます。例えば、花を飾るとき、大抵の人は花屋で買ったり、咲いている花を切るで

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 三谷清攬」のらりくらり

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 心月」のらりくらり

          「心月孤円 光呑万象」 心とは何か。 万象とは何か。 この世に明確なものなど一つも存在しない。 もし在ると言い切れるのであれば、それは人の傲慢さに他ならない。 生きとし生けるものは何の理由もなく、存在しているのだから。 そして常に複雑なものである。 安易にわかりやすくする事は、私にとっては、まだまだ、とても烏滸がましい行為である。    心というのは本当に不思議で、一つ境界線を作ると明確になるのに、真実が失われていくように感じます。両親への気持ちや、恋人、友人への気持ち

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 心月」のらりくらり

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 霧海篪」佇む心

          私は大海原で濃霧に呑まれ、一寸先は何も見えない状態である。 波に身を委ね、無心で尺八を吹く。 海鳥のように、または生まれたての赤子のように。 浜辺にいる者は、そうした得体の知れない音に聴こえたかも知れない。 意図とは常に自身の思惑とは異なり、他者の心に反映されるものである。 そして、そうした偶然的必然が、“それ”を呼び起こさせる。  人生で何度、濃霧に包まれるような経験をしただろうか。私は失敗を恐れない傾向があるので、大抵、濃霧の中を漂っている。失敗から学び180度、生き

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 霧海篪」佇む心

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚霊」時間と繋がりの大切さ

          心は空虚な身体から放たれるのか。 はたまた魂というものから放たれるのか。 少なからず“それ”は私の身体を通過して、空虚な心も通過して、空に音を漂わせる。 無為の心は、静かに流れる。 遥かに深層の“それ”は一人の心で出来ているものではない。 生死の積み重ねの溝にできた幾十もの欠片で成形された“それ”は、 他者の心と身体をも通過して繋がりを求める。 この現世での心の縁のもとに。  吹禅を極限に集中している時、身体という概念がなくなり解放される事があります。いつもそうした感

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚霊」時間と繋がりの大切さ

          「禅の響 -ZEN no OTO- | Prologue」漂うというはじまり

          いつものはじまり  今回は「漂う」というテーマでvol.2を吹禅しました。通常の演奏ではフレーズであったり、音を空間に飛ばすような、響かせるような事を意識していますが、今回は、届けるのでなく、空間に音を漂わせて捉えてもらうようなイメージで吹禅しています。遠くで音が響いているような、霧の中で見えない何かが鳴いているような。  毎回するであろう、Prologue とEpilogue。同じ楽器を使って即興をしています。通常の尺八は指穴が5つありますが、この超長管は穴が一つしかあ

          「禅の響 -ZEN no OTO- | Prologue」漂うというはじまり

          「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」終焉からのはじまりの予感

          一つの終焉  呼吸にもいつか終わりがあるように、生にも終わりが来ます。それはPrologueと類似しているようで、全く異なる状態。  目的や終着点を気にする人と私はよくお会いするのですけれど、その目的であったり終着点を絶えず考えている人には、その次のPrologueを感じられません。それはもしかしたら「個」という存在にこだわり過ぎているのかもしれません。例えば、「禅の響 ZEN no OTO」を聴いた方には、それぞれ既に何らかの「Prologue」が起きているわけで、なん

          「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」終焉からのはじまりの予感

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 龍聲」ないものをあるとせよ

          龍の夢を見た。 龍は目で語る。 ないものをあるとせよと。 空に舞う霧とも思える龍たちは、いつも傍にいる。  この曲は、私が昔、夢に見た龍を音として残したく作曲した曲です。夢の詳細はこちらをご覧ください。「アルバム 回向 曲解説」 「ないものをあるとせよ」  私が毎年行く、戸隠神社の近くにあるキャンプ場で2年前に撮った写真です。雨がザーザー降る中、何かに囚われたように急に龍聲を吹禅したくなりました。雨は勢いを増し、霧のような雨になり、上空ではいくつもの雷鳴が重なり、私は

          「禅の響 -ZEN no OTO- | 龍聲」ないものをあるとせよ

          あてのない旅へ

          私は旅を計画しない。 計画すると偶然の喜びが減ってしまう気がするから。 ふと思い立った時に車に乗り込み、そして何も考えずにドライブをする。 少し前も、そんな感じで、富士山の周りの湖を制覇した。 最初は何気なくドライブをしたら、白糸の滝という所に辿り着いた。そう丁度お盆の季節だった。 白糸の滝の公園を一周して次の目的地を、またあてもなくドライブしようかと考えていた矢先、看板に「工藤祐経の墓」と書かれた文字が目に入った。「工藤祐経」は一応、私のご先祖さまで鎌倉にも縁があ