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「禅の響 -ZEN no OTO- | 霧海篪」佇む心

私は大海原で濃霧に呑まれ、一寸先は何も見えない状態である。
波に身を委ね、無心で尺八を吹く。
海鳥のように、または生まれたての赤子のように。
浜辺にいる者は、そうした得体の知れない音に聴こえたかも知れない。
意図とは常に自身の思惑とは異なり、他者の心に反映されるものである。
そして、そうした偶然的必然が、“それ”を呼び起こさせる。



  人生で何度、濃霧に包まれるような経験をしただろうか。私は失敗を恐れない傾向があるので、大抵、濃霧の中を漂っている。失敗から学び180度、生き方が変わる事がある。過去の自分に興味はないし、引っ張られる事はない。がむしゃらに生き、見るのではあれば、今の自分を見て欲しい。過去の自分がどうとか言われても困る。必死に生きてきた結果なだけだ。心に実直生きてきた。それは、世間の尺度で測れないだろうし、一般的価値観にも当てはまらなかった。だから、もちろん人を傷つけてきた。勿論、たくさん傷つけられてきたし、それが生きる事だと思っている。私は綺麗事が嫌いだし、醜い心を置き去りにはしない。結果を求めない。

 大抵の人は、上記のような生き方は怖いし出来ないと思っているのではないでしょうか。日常は穏やかであって欲しいし、醜いものは見たくない。でも本当に魂を感じられる生き方はどちらだと思いますか。

 必死とはがむしゃらです。がむしゃらに生きていない穏やかさは、とてもか細く自然では通用しません。逃げているに過ぎません。

 ある一定、がむしゃらに生きていると、心は平穏になります。心が広くなり動じなくなります。結果や成果を求めなくなります。

 私が知る限り、死は直前まで不安であり穏やかなものではありません。本当の死の間際までは。受け入れる事が境地なのだと思います。

 私自身が13歳の時に死を実感して数ヶ月眠れない時がありました。原因はともかく、どうにもならない事を考えるより、必死に生きる事を選びました。

 一呼吸、一呼吸を必死に、そして大切にしていると、声と言葉が真実を伝えるようになります。

 一息の一生を知ると、それは相手の一息を知る事ができるようになります。

 両者の一息がわかると、空間に魂が溢れている事がわかります。

”それ”に伝わる事は、奇跡ではなく、そうした生きる事の力で出来ている事を感じます。

それは右左前後に揺らいでいるように見えても、実はしっかりと、どっしりと佇んでいます。

魂に心を伝えるということは、あなたの生きた証なのではないでしょうか。


 

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