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「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」遊んでいたい

一つの終焉


 今回のEpilogueは自分の知識で作らない音を求めました。それが、なかなか難しい。考えてしまいますし、音が出なくなるのも怖い。吹禅の最中に気が付いたのですけれど、そうした気持ちを外すのは、楽器と対話する事と遊ばせる心でした。

 僕にとってもは、とても苦手な事ですが、遊び心というかユーモア、そして、それをしてみる恐れない心。そうしたものが新しい音であったり、世界観を作っていくのだなと思えました。

 演奏後に記憶が過ったのが、小学生の頃の遊びでした。小さい頃、札幌というそこそこ都会に住んでいたものの、周りは庭などを持っている家が多く、そういうところには、決まって子供たちの隠れ家的になる場所があります。大人から見れば、それは、なんだかわからない草むらであったり、倉庫だったのかもしれないですけど、僕たちにとっては、かなり価値のある隠れ家でした。他人の庭に忍び込んで、そこからみんなで周辺の探検に行くのですが、それは、もうジャングルでしたし、未知の世界でした。

 心はいつだって、そうした自由に溢れていて、やりたい事でいっぱいでした。それが大人になるにつれて、義務であってり、やらされ感であったり、何かの結果だけを求めてしまうと怖くてできない。だから僕は1分1秒、できるだけ毎日遊んでいたい。最近、そういう心を感じられるようになりました。そうすると、目の前がぱあっと広がっていくのを感じて、見えなかった人たちが見えてくるようになりました。

 僕には歳、性別関係なく憧れている人や尊敬している人がいます。その方々は共通して、いつも力が抜けていて、行動や発言が自由で、人を惹きつける魅力があります。真似したくても真似できません。僕はどこかで、特別な人とか、または育ちの良い人と卑屈に思っていました。でも、それはやはり僕の卑屈な心で、そうした方々は遊んでいながら、いつも心は相手を気遣っているし、その先々の繋がりや感謝を感じているんだなと思います。

 今回の遊びの心を知る事ができたのは、僕にとって、とても小さな奇跡ですし、そうした方々に近づく、そして次の始まりに繋がる第一歩だと思っています。

 今回の禅の響のテーマ「漂う」は、意思、自我を持たない音から始まり、無垢な心の存在へと変化していきました。僕は演奏の曲を決める時はインスピレーションで決めて、そこに共通する何かを感じたものをテーマとしています。なので、変化したのは意図的ではなく、禅の響を通しての僕のカルマだったのかも知れません。まだ2回目が終わっただけですが、自分がなんぼのものもんじゃいと打ちのめされます。是非、次回も僕自身の成長とともに聴いていただけると幸いです。

 そして、皆さんの心に響が伝わりますように。

 

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