「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚霊」時間と繋がりの大切さ
心は空虚な身体から放たれるのか。
はたまた魂というものから放たれるのか。
少なからず“それ”は私の身体を通過して、空虚な心も通過して、空に音を漂わせる。
無為の心は、静かに流れる。
遥かに深層の“それ”は一人の心で出来ているものではない。
生死の積み重ねの溝にできた幾十もの欠片で成形された“それ”は、
他者の心と身体をも通過して繋がりを求める。
この現世での心の縁のもとに。
吹禅を極限に集中している時、身体という概念がなくなり解放される事があります。いつもそうした感覚の時には頭の中の中心に青色のような塊が在り、そこから蜘蛛の糸のようなものが身体から離れ、漂っているのが見えるのです。そうして、ひっそりと漂っている観客の糸と触れ合います。また、その糸は建物も抜けて遠くに遠くに漂い始めます。そうして、空間が糸でいっぱいに張り巡らされているのに気が付きます。
そうした時はいつだって、場所としての概念はなく、時間の境界線が平行に進んでいる事を実感します。今回、vol.2の演奏で三谷清攬の時、そのような感覚に襲われました。
虚霊はそうした感覚の入り口に入る音のように感じます。
最近、私はめっきり音楽を聴かなくなりました。たまにそういう時期があるのですが、はっきりした音やフレーズ感のある曲を聴くと、エゴが強い方の演奏家などの意思を強く感じてしまうため、気持ちが疲れてしまいます。
自然には正常な時間軸での効果や変化が在りますが、人間が作ったものには、時間軸を無視する傾向が在ります。それに疲れるのだと思います。
今回、漂うテーマは一見して、音の事を想像される方が多いと思いますが、そうではなく、音が発生してから自然に心に届く速さであったり、感情の変化の自然の速度であったり、そういったものを感じてもらいたいと思いました。人は常に結果を求めるため、見たり聴いたものがすぐに感情に促されると思っています。それはとても浅はかです。心の変化や何かが落ち着くのは殆どの場合、三年はかかります。
音はあなたの心の奥に留まります。そして、それがいつの時期かに心の琴線に触れるのです。それは音としての感動ではなく、その人の生き方やさまざまな思いが栄養として変化します。
どうか、繊細な漂うものに触れてみてください。
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