エッセイ「詩と小説」3. #執筆観

 先日、まったく接点のない分野にいる2人が、それぞれ、違う場所で、同じ日に同じようなことを話しているのを聞いた。デジャヴ? きっとそうじゃない。

 あるフランス文学者は言った。
「ニーチェってさ、なんだか難しいこと書いてて、正直俺もよく分からないんだけど、なんとなく字面見ているだけでカッコ良くて引き込まれない?」

「方言の昔話は意味を理解しようとして聞くものではないのです。なんとなく意味のわからないまま聞いていても心地よくて、気付いたら終わるか寝てたかでよいのです」
 と言ったのはある民俗学者。

 さてこの出来事は、つい先日まで連載していた短編小説の話に繋がる。ギリシャ神話のオリュンポス12神の1人であるアポローンがテーマになっている(察しの良い方はもう1人のテーマとなる神の存在にも気付いたかもしれません)。しかし古代ギリシア語では〈アポローン〉と発音するところを敢えて〈アポロン〉としたのは、それなりに理由がある。

 自分の書いた作品に解説を加えるのは本来は避けたい。それは読者の『感じる余地』を奪ってしまうからだ。なので最低限にしておく。
 僕がモチーフにしたのは、ギリシャ神話のアポローンではなく、フリードリヒ・ニーチェがそこから派生させ提唱した『アポロン的な』という美学上の概念だ。ニーチェのこの芸術論は後代の様々な学者や著作家に影響を与え、文化人類学者ルース・ベネディクト(『菊と刀』の著者 )も同じ言葉を引用して、文化の型の説明として使用している。多分、三島由紀夫も影響を受けている。

 ニーチェは難解である、と言わない者はなかなかいないと思う。彼の著作には反語、逆説、比喩、誇張、ありとあらゆるレトリックが駆使される。その哲学・思惟を理解するのに、僕にはどれだけの時間が必要だろうか。当然、西洋哲学の基盤のない僕にはプラトン・アリストテレスから始めることが要求されるのだろう。

 しかしニーチェはそれを要求するだろうか?

 ニーチェが哲学に傾倒したのはボン大学に入学してからのことで、それまでの学院時代は詩人であり音楽家であった。ニーチェが人々を魅了するのは、緊密に練り上げられた論理的な哲学体系ではなく、詩や音楽にあるような『なんとなくのカッコ良さ』『意味が分からない中での心地よさ』ではないかと思う。つまり読者・聴衆に『感じる余地』を与えているところだ(ニーチェがその余地を残そうとしたかどうかは別の話)。

 哲学者の方々、専門家の方々、ごめんなさい。僕にはニーチェをその程度の視点で捉えることしかできない。僕が真剣にニーチェに取り組もうとしたら、それこそ永劫回帰で受動的なニヒリズムに陥ってしまう(なんとなく言いたくなるのも彼の凄み)。
 しかしその天辺から差し込む陽光のような魅力につい引き寄せられ、彼の思想や言葉の一部を勝手気ままに借用して小説を書いてしまった。多くの著作家が残したような偉大な本に比べたら、不真面目かつ不謹慎な態度で。

 でもいいでしょ?

 だってあなたの書く詩は、意味分からないけど何となく、でも滅茶苦茶にカッコいいんだから!!


 もし興味を持ってくださった人がいたときのために、参考文献を載せておきます。◆ フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』岩波文庫◆ ルース・ベネディクト『文化の型』講談社◆ 三島由紀夫『サド侯爵夫人』新潮社


#小説 #小説家 #執筆 #詩 #随筆 #エッセイ #ニーチェ #ベネディクト #三島由紀夫 #アポロン型

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!