エッセイ『ある王女の詩の変容』 #執筆観

 僕は言葉の力を信じている。ずっと胸の奥底に眠っていた或る言葉が、ふと目を覚ます瞬間に出くわしたことは、きっと誰にもあると思う。取り出したり、仕舞われたりするたびに、少しずつ意味が変わっていくことも……
 今回は或る漫画のセリフの話題。

 『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』(以下『ダイ』)は1989年から8年間に渡って連載された漫画で、原作者である三条陸氏は多くの人気漫画や実写特撮作品を手がけている。『ダイ』の魅力は、ドラクエの世界観を根底に置いた冒険や戦闘シーンなどの従来的なものと、物語にも重点が置かれ人間的なドラマが多く含まれている新規的な部分の融合にある。一方で男の子なら誰もが聞いたことがある武器や呪文が繰り出されながら、その一方で師弟・朋友・親子・男女のいろいろな愛情挿話がひたひたと流れくるものだから、否応無しに人生勉強をさせられるのだ。

 その中で主人公パーティーを〈正義や勇気〉へと駆り立てる箴言の数々が登場し、多くは彼らの師『アバン先生』によって語られる。そして話の後半、アバン先生の後継者として、パーティーの先導者として抜擢されるのが『レオナ姫』である。戦闘能力の高くない彼女は、主人公パーティーの力になるべく、強大な破邪の魔力を得るために深いダンジョンを進み、そこで試練を受けるのだ。『なぜ力を欲するのか?』というと言う問いとともに。それに対してレオナの出した答えが、次のセリフである。

 信じているからよ、今まで生まれ育った大地を、国を。そしてそこに生きるすべての人々を。悪を倒すためでなくあたしたちの受け継いできたものが決して間違っていないことを証明するために。力が欲しい、それだけよ。

 この言葉こそが、僕にとって作中もっとも印象深く刻まれたものだ。そして事あるたびに取り出しては吟味して、また大事に仕舞うようなものになったのだ。
 今改めて見てみると、これは明らかに〈詩〉だ。近代ヨーロッパに見られるような、理念を高らかと謳った詩と言ってなんら差し支えない(近代欧州詩についてはまた機会を改めて書こうと思う)。

 当時、僕は小学生。試練の炎に焼かれながら勇猛な顔つきで語るロングヘアの姫に感じ入ったことを確と覚えている。しかし「力が欲しい、それだけよ」の部分にどうしても拭えない違和感が残った。その違和感とはおそらく「何かを証明するためには力が必要なのか?」という問いであると思う。
 『ダイ』の箴言の中にはアバン先生が言った次のようなセリフもある。

 正義なき力が無力であるのと同時に、力なき正義もまた無力なのですよ。

 哲学者・パスカル、武道家・大山倍達らが同様の名言を残しており、引用か影響か、はたまたオリジナルかは知り得ないが、思い当たる節の多い普遍的な命題だ。先に示したレオナの台詞だけでは、ともすれば『勝てば官軍』に繋がりかねない。それが僕の感じた違和感の正体であった。しかし次にあげたアバン先生の台詞を加味するとそうではない。なぜなら「正義なき力は無力」なのだから。レオナの言う〈力〉は〈正義〉を前提にしている。彼女らが言うのは、倒す力ではなく守る力なのである。(正義とは何か?については本質から外れるので置いておく)

 ところで、「故郷や国や人々を信じる」という感覚はこの漫画を読むような幼少のうちにはなかなか実感できないものだと思う。「受け継いできたもの」というような体験も多くはないだろうし、多少はあったとしても当人に「受け継いだ」感覚があるかどうかはまた別の話だ。レオナは姫だから若くして多くのものを背負っている。それこそ国土と国民を支えている公人なのだ。しかしそれは個人にも置き換えられるものではないだろうか。

 僕には20歳を越えてから、どうしようもなく自分に自信が持てない時期があって、その度にこの言葉を胸の内から取り出した。良し悪しは多少あれど、僕にも歴史がある。僕を産み育ててくれた大地と家族があって、好いてくれた人や大事にしてくれた人、嫌う人や批判した人もいる。それは動かしようがない事実だから、肯定も否定もなく、信じるしかない。そして人々が投げ掛けてきた言葉を臓器の1つとして、そのときどきの自分の姿で立っているのだ。だから自分に自信を持つ必要などない。レオナの言葉通り「生まれた故郷と、国と、人々を信じる」だけで、充分に自分を信頼して良いのだ。……とその頃感じたわけだ。

 30歳を越えてから、他人からいわれなき怒りや批判を受けることがあったりすると、僕はこの言葉をまた取り出す。当然、口に出して相手に言うわけではない。ここで取り出すのは、自分を守るためとは少し違う。相手を侵略しないためである。目の前にいる、いくらでも敵と見做しうる相手にも、故郷があり、かれを支持し、慕う人がいたりするわけだ。相手を敵にするのは、そのことについ盲目になってしまう自分のせいでもある。

 人を否定する言葉がゴミゴミとそこら中に溢れかえっている。その言葉はある特定の人物や考え方を否定するだけではなく、ある歴史や地域や人々が培ってきたものを、そのザラつきで痛々しく擦っているのだ。それはめぐらずとも当然のように、発信者に返ってきている。ほら、ヤスリを握る手に血が滲んで、あなたは苛々している。わたしもあなたもあの人も、故郷と歴史を持っているという点で同じなんだよ。

 こんな甘いことを言う自分は無力だろうか、などとふと思ったりする。
 剣としての言葉を持つ人は確かに強い。しかし僕は、言葉は盾の用途で使いたい。それは自分が断固として動かずに撥ね返すための堅い盾ではない。柔らかい繊維で編み上げた丈夫な生地のような、もっと言えばしなやかな強い皮膚のような盾として、紡ぎたいのだ。僕が動けば一緒に形を変えて動いてくれるような、頼もしい同胞としての言葉の盾。

 綻んだ場所ができたら、また編み直せばいいよ。


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