文豪だから言える「文豪たちの悪口本」
こんにちは。上級心理カウンセラー&マインドフルネススペシャリスト、マインドフルネスカウンセラーのKIYOです。
今回は読書記録です。コンビニでふらっと見かけた本「文豪たちの悪口本」と言う本です。
正直、昭和初期の文学を読んでいた人でないと、漢字などにルビがふってありませんので、結構、読みにくいかもしれません。
また、単語も、近年では使わなくなったものや、言いまわしも現代では使わない形なので、それがどれ程「悪意」のある言葉なのかを読み取るのも難しいかもしれません。
しかし、思ったのですが「悪口」を雑誌上や手紙でやり取りするというのは、やはり時代背景もありますが、「文豪」が「文豪」たる所以だと思います。
今の作家さんたちが、互いに悪意を込めて批評したりするのを読んだことがあるでしょうか?
「文豪」達は戦争を生き、文章に命を懸けているからこそ、「悪口」を正々堂々と書けるのだと思います。
また、文壇のヒエラルキーというのもすごく感じました。体育会系より恐ろしい…。
私には菊池寛の姪だった人との親交があったのですが、その方は他の文豪にも見られたように夭折された、ある文豪の長男のお嫁さんだったのですが、非常に心優しく、教養があり、私が読めないような達筆な筆遣いで、毎年、クリスマスカードを送ってくださいました(母のピアノの先生でした)。その方の義父も、こんな悪口を言う方だったのかしらん、と思うと、なんかゾワゾワしちゃいました…。
しかし、いやぁ~、私にとって、作品しか知らないような文豪がたくさん取り上げられているのですが、びっくりしましたよ。だって、ほとんど文庫本のカバーには作者の写真と略歴が載っていますよね。そのイメージが私には強くて…。そんな「悪口」を言う人だったなんて…、ちょっと作品と写真のイメージをひっくり返された感じのショックを受けました。
例えば「中原中也」。「汚れちまった悲しみに」や「サーカス」の「ゆやーん、ゆよーん、ゆや、ゆよーん」などと書いている童顔の作家が「殺すぞ」と言ったり、他の作家をこっぴどく日記に書き貯めているのを読むと、それはそれは、ショックでしたよ…
太宰治や坂口安吾が悪態をついたりするのは理解できます。(よね?)
志賀直哉がなんとも鼻につく高潔さ、「君たちと私は違うのだよ」的に立ち振る舞うのは分かります(志賀直哉が好きな方、ごめんなさい)。
しかし、しかし、一番面白かったのは「文藝春秋」に直木三十五が匿名で作った「文壇諸家価値調査票」なるものです。
こんなの、今の時代にあったら、すごく面白いのに!っていうか、作れないよね!という内容なんです。
学殖、天分、修養、度胸、風采、人気、資産、腕力、性欲、好きな女、未来
などの11項目を100点満点で採点された表があるのです。おおよそ60名の文豪が採点されたものが雑誌で発行された…。すごい事ですよね。
未来が0点って付けられた作家はどうしたら良いのでしょう?
性欲98点とか、0点とかつけられたり、好きな女「金のかからぬ女」「玄人」とか書かれた作家はどうしたら良いのでしょう?
そして、個人的には、私の好きな作家たちがこっぴどく採点されてる!
そりゃぁ、「悪口」書きたくなりますよね、って同情しちゃいました。
しかし、永井荷風と菊池寛が仲が悪かったというのは、私は知らなかったことなのですが、今の作家さんって「仲の良い人」は紹介するけれど、嫌いな人を堂々と言う人はいませんよね。
それって、なぜなんだろう?と考えると、まぁ、昭和初期、中期と今との人間関係の在り方が一般人においても穏便であろうとするのと同じなのかな、と思ったり。
もしかしたら、(作家の先生方、失礼極まりなくて申し訳ありません)命懸けで書いているから、自分の作品にも自信を持っているし、相手に対しても戦いを挑むだけの度胸があるのかな、とも思ったりしました。
今や、文字離れから本を読む人が少なくなった時代、売れる本を書くことが大切だったり、じつは小さなマーケットを取り合う、当時よりも熾烈な戦いが繰り広げられているのかもしれませんが、当時は庶民の娯楽と言えば「読書」だった中、自分が生き残るのにもっともっとハングリーだったのかもしれませんね。
さて今はどの作家さんを「文豪」と呼ぶのでしょう?
「大作家」「ベストセラー作家」「直木賞作家」「芥川賞作家」「ドラマ化された作家」、どれも『文豪』とは種が異なる気がします。
「文豪」、あぁ、私は彼らの作品が大好きだなぁって思いました。
是非、昭和文学がお好きな方は手に取って、当時のゴシップを楽しまれるのも、また作家の本性?を知って、その作者の本を読むのも、また一興かと思います。
KIYOでした。
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