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どこまでが多様性?『寛容』のライン。~ぼくには神社がたいせつ~

なんということでしょう。

ぼくは日々、ぼくとはことなる価値観を受け入れようと必死で、翻弄されていたと思う。

"相手を認めること"が寛容だと勘違いしていた!!!

そんな折

なかそねさんの「許容と寛容」をよみ、ハッとしてギュッとした。まさに求めていた題材、あらたな問いを手にしたような気がしたんだ。

許容しすぎた人


ぼくは、さいきん

ぼくとは異なる価値観を許容したことで、翻弄されていた。

そのことに自覚していた。

「絶対に分かり合えないから、お互いに干渉しないでおこう!」というのが多様性の尊重であり、寛容になることだろう。しかし、この微妙な距離感は非常に難しく、我々はすぐに間違った応答をしてしまう。

「許容と寛容」 なかそねさん


ぼくはえっと思って、ハッとした。


そもそも

「絶対に分かり合えないから、お互いに干渉しないでおこう!」ってしていいのか、何だか不安だったからだ。

だって怖いじゃないか。あんたのことは分かれない!って言ったら多分怒る人がいるし。(言わないけど…)

みんな、なんか、分かり合おうとしているっぽいし・・・

という感覚をますば観察した。



でも、
本人のぼくは、だれかに分かれない!って言われても平気な気がした。あんま、言われたことないけど。分かれないのは仕方ないし、それなら別にいい。
(危害がなければ)

本当は触りたくない、なんか汚そうだからそっとしておこう。臭いものには蓋?。

それで仕方なく
「絶対に分かりあえないと言わずにとりあえずは認めようとして、干渉をせず、許容」していたような気もする。


すべてを曖昧にし、なんとか許容することで、なんとなくホワッと寛容しているような感じをしていた。

怒られそうだし、許容しとくか。


でも結果的には苦しい。


許容カードを切るのは簡単。だけど、その代わりに自分が苦しむけどね…

ぼくは、許容しすぎた人だった?


この『微妙な距離感』は非常にむずかしい・・・

今後は、微妙な距離感をできればベストだな。

微妙な距離感、できるといいなぁ~~…


「絶対に分かり合えない相手のことも認めてあげよう」(許容)について

(文はこうつづく)

それは「絶対に分かり合えない相手のことも認めてあげよう」だ。それは寛容ではなく許容だ。

これは、

"分かり合おうに近い感覚"という記述をみて、一旦ぼくもそのように仮定してみるコトにした。

まさに・・・と思いつつ、 

「私には分からないけど、そういうのも認めてあげないとね」という気持ちからくる。これが寛容な態度だろうと我々は思ってしまう。

うわあ、まさに過ぎて痛い。

「そういうのも認めてあげないとね」、って真をついていないだろうか・・・。なんだか上から目線だったのかもしれないゾ。

ゲゲゲ。


だれもがただしく、だれもまちがっていない。の厳しさ

彼の引用リンクをみていたら、こういう文章をハッケンした。

"多様性・寛容性の名のもとに、「だれもがただしく、だれもまちがっていない」社会を目指した。これによって一時の賞賛や共感は得られたが、しかし西欧的な価値観や道徳観とはけっして相容れない人びとと軒を連ねるような現実を受け入れなければならなくなった。"

"多様性という「相対化」の文脈が、自分たちの思想そのものにまで及ぶとは想像していなかったようだ。"

↓ 出典

軒連ねちゃだめだったっぽい。

そうか、これが歴史。歴史から学ぼう。


そしてその結果

"「たくさんのただしさ」が乱立し、結果的に「ただしさ」が飽和した。自分たちの「ただしさ」をさえ侵襲してくるような「別のただしさ」を持つ集団の台頭を許し、いよいよ耐えられなくなってしまった。世界はやはり、たったひとつの「(私たちの)ただしさ」によって統べられるのがよい――そのように考えなおしたのだ。西欧世界はいま「ネオ・オリエンタリズム」とでもいうべきフェーズに移行している――すなわち、西欧人の基準による「ただしさ」によって世界を再び統一しようとしている。"


ふむ。


「だれもがただしく、だれもまちがっていない。」って何かいい。美しいし綺麗だ。本当はそうだったらいいのにって、思う。

でも、それ(尊重)と、許すことは相容れない。
許してしまうとどうなるのかは、もうすでにぼくは体感していたし、だから全員が正しいとは言えなかった。

絶対に分かり合えないから、お互いに干渉しないでおこう!」というのが

多様性の尊重であり、寛容。これはきっとこれからの理想的な社会なのだ。おとなだ・・・

これが歴史からみると、最適解のようだった。知れてよかったけど「なんだ~それでいいのか~~」

と、やっぱりまだちょっとたまげた。


こうしてぼくは、

許容と寛容のちがいについて

理解が深まってきた。

自分たちと違う価値観で生きる人がいてもいい。よく分からないけど、その存在は認める。しかし、それが自分のテリトリーに入ることを許すわけではない。お互いに干渉せず距離を取ること。それこそが寛容だ。

しかし、の後が大切だ。

自分たちと違う価値観で生きている人がいてもいい。存在はあるけど、ここからは決して入って来ないで下さいね。のラインの必要性。

ここからは決して入って来ないで下さいね。のルール作り。

ラインはとても重要。

って、当たり前か。そんな当たり前なことに気がつけた。


『自分のテリトリーに入ることを許すわけではない』


ただしい寛容って、適切な距離


本当の寛容とは…(中略)
適切に距離をとって、そっとしておく。みんなが正しく寛容になることが、快適な社会への道なのだと思う。


許容は、寛容は。

ことばにするとちょっと難しいけど、


何でもかんでも許すのはちがう。

どんな相手にも同じ対応はできない。

鍵を明け渡すな。

じぶんのテリトリーを守れ。


でした。

あなたの理論はあなたにとって正しいだろう。けれど、誰かにはちがう理論がある。それがみんなに当てはまるとは限らない。

(全員に理論があるとも限らないけれど・・・(?))


ぼくは、そっとの距離が好きだ。

ぼくが求めていたのは、じゃまされないで楽しみを嗜むこと。お互いがそっとしておく人生。

ぼくは、他人をそっとすることはできていたから、よし。もうそこからは少し遠ざかっていいんだ。

今度は、じぶんのテリトリーをもっと強くしていきたい。尊重はたいせつにしたいところだが、それは片一方、自分だけでは成り立たない何かがある。

ぼくは自分を捧げてまでして、許容したり、我慢してはいけない。

あなたを認め尊重はするけれど、わたしの尊重を汚さないことが歩み寄る条件。歩みよれない人には歩みよらない。

まずはそれだけで、いい気がした。


人にはそれぞれ、神社がある。

決して、濁してはいけないもの。

ぼくには、そういうのが必要だ。


( 22.3.10 )


↓ さいきんのぼくの、許容しちゃってた話 


memo ぼくの神社

神社がない人もいるのか?
知らんけど、ぼくにとっては必要だ。
ぼくの美しいものを守り愛でていたい。

条件を満たさない人はラインを超えてこないでください。? 就職活動っぽい?

絶対に分かり合えないって分かってても、拒否したらだめなのか?だめではない。それを良いとするのなら…? 悩み事が薄れる予感がする。打開策ならぬ打開的な問いになるかもしれないのだ。

拒否のしかたとは。


干渉されないラインをつくる

お城をまもる

鍵をほいほいと渡さない

言いたくないことを言わないために、何か仕掛けを作らなくてはいけないかもしれない。何か言わずとも、そっとされるような機運を高めたい。


そっとされたい、
そっと大切なものを守るだけのこと。

そっとされたい同盟国とは、仲良くできそうだ。そういうところへ遊びにいきたいなぁ

学びたいなぁ

それにもちろん、

一人でもさみしくはない、
一人でそっと愛でて慈しむ時間もいいもんだ。でも、多いのもつよそうだ。

生物として

ひょっとすると、がまんしていたあの日の許容は、「仲間がほしいゆえ」の、そんな行動だったのかな。

きっと、ぼくなりの、あれだったんだ。
生存戦略的なあれだ。 

さぁ~~て、
これは次なる問いなのか?!

仲間ってなんだろう、
なんで必要なんだろう

仲間がいるとなんで安心するんだろう
背中を預けられるからかな

なんだろう仲間って、
守り合える人のことなのかな・・・?

あぁ、なんか仲間って文字に
ゲシュタルト崩壊してきたゾ。

ま、いけば分かるさ。分かるさ いけば。


だな~~



ポンっ…

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