オードゥリ・ヘップバーンと氷菓屋台
「私たちの愛はここにずっとある」Our Love is Here to Stay
1950年8月1日、47歳のヴィンセントゥ・ミネーリ(Vincente Minnelli、1903年2月28日~1986年7月25日)監督、身長170㎝の38歳のジーン・ケリー(Gene Kelly、1912年8月23日~1996年2月2日)主演、MGM社の総天然色の音楽喜劇映画劇『パリのあるアメリカン人』An American in Paris(113分)の撮影が始まった。撮影は10月4日まで続き、追加撮影は1951年4月2日からおこなわれた。
脚本は31歳のアラン・ジェイ・ラーナー(Alan Jay Lerner、1918年8月31日~1986年6月14日)だ。
ケリーは戦後のアメリカン人画家ジェリー・マリガン(Jerry Mulligan)を演じた。
フランセーズ人のリーズ・ブルヴィエ(Lise Bourvier)役に、バレエ振付師ロラン・プチ(Roland Petit、1924年1月13日~2011年7月10日)のバレエ団に所属していた身長156㎝の19歳のレスリー・キャロン(Leslie Caron、1931年7月1日~)が選ばれ、1950年5月29日にMGM社と映画出演契約をした。
映画で使われる楽曲はすべてジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin、1898年9月26日~1937年7月11日)の作曲、その兄アイラ・ガーシュウィン(Ira Gershwin、1896年12月6日~1983年8月17日)の作詞による。
MGM撮影所の撮影舞台で撮られた、フランス(France)のパリ(Paris)のシテ島(Île de la Cité)にあるノートゥル・ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の前のアルシュヴァシェ橋(Pont de l’Archevêché)の反対側のトゥルネル河岸(quai de la Tournelle) での夜11時の「私たちの愛はここにずっとある」Our Love is Here to Stayの場面。
1950年12月31日、松竹直営の約1,700席の東京劇場はウォーナー・ブラザーズ社(Warner Brothers)の映画劇『摩天楼』The Fountainhead(114分。1949年7月2日公開)の日本語字幕スーパー版の上映で洋画系の映画館となった。自由席120円だった。
1951年5月1日、日本国の外国映画の輸入統制に関する権限が、同盟諸強国最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)から日本政府に移転された。
日本国内に劇場網を所有する松竹、東宝、日活の国内3社は、早速アメリカ連合国(United States of America)の大手映画制作・配給会社と日本国内での映画作品配給契約交渉を開始した。
1951年10月4日、ニュー・ヨーク・スィティ(New York City)の約6,000席の放送都市音楽堂(Radio City Music Hall)で映画劇『パリのあるアメリカ人』An American in Parisが公開された。
1951年12月27日、翌年の日本国の独立主権回復を見越して、軍総司令部の外郭団体セントラル映画社(Central Motion Picture Exchange)が解散した。
アメリカ連合国のパラマウント映画株式会社(Paramount Pictures)、MGM日本支社、二十世紀フォックス(Twentieth Century Fox Film Corporation)日本支社、ワーナー・ブラザース(Warner Bros.)日本支社、日本RKOラヂオ映画株式会社(RKO Radio Pictures Japan)、ユニヴァーサル(Universal Pictures)日本支社、コロムビア映画会社(Columbia Pictures)日本支社が10年ぶりに再設立された。
1952年4月28日、日本国は約6年半ぶりに独立主権を回復した。
1952年5月2日、東京劇場でMGM社の映画劇『巴里のアメリカ人』An American in Parisの日本語字幕スーパー版が公開された。早朝割引150円、自由席200円、学割150円、指定席A席300円、B席250円だった。前日午後6時開場の前夜祭(A席300円、B席250円、一般200円)も催された。
『ローマン人の休日』Roman Holidayのジェラート
1952年6月23日から10月11日まで、イターリア(Italia)のローマ(Roma)のチネチッタ撮影所(Cinecittà Studios)で、50歳のウィリアム・ワイラー(William Wyler、1902年7月1日~1981年7月27日)監督、最高級写真社(Paramount Pictures)のモノクロ映画劇『ローマン人の休日』Roman Holiday(118分)の撮影がおこなわれた。
「民衆向けの残虐な見世物」の意味をももつ題名は、イングリッシュ語文芸の古典、ジョージ・ゴードゥン・バイルン(George Gordon Byron、1788年1月22日~1824年4月19日)の物語詩『チャイルドゥ・ハロルドゥの巡礼』Childe Harold's Pilgrimage第4巻(1818年)のstanzas 141の一節 "He, their sire, Butcher'd to make a Roman holiday!"に由来する。
1812年3月3日、ランドゥンで、24歳のジョージ・ゴードゥン・バイルンの物語詩『チャイルドゥ・ハロルドゥの巡礼』Childe Harold's Pilgrimage第1巻(John Murray)が500部刊行され、3日で売り切れた。
この頃から主に貴族階級の読書愛好界において、行動規範が同時代の保守的な標準からあきらかに逸脱した冒険的な有名文化人を熱狂的に崇拝する習慣が流行し始めた。
2022年(令和4年)7月1日発行、69歳の的場昭弘(まとば・あきひろ、1952年10月25日~)著『「19世紀」でわかる世界史講義』(日本実業出版社、本体2,000円)、第3章「ヨーロッパの真実」より引用する(113~115頁)。
『チャイルドゥ・ハロルドゥの巡礼』は1812年に第1巻、第2巻、1816年に第3巻、1818年に第4巻が刊行された。
1900年(明治33年)10月22日刊、「拾貮文豪」號外、21歳の米田實(まいだ・みのる、1878年12月7日~1948年1月9日)著『バイロン』(民友社、25銭)、第七「チヤイルドハロルド」より引用する(88~89頁)。
1924年(大正13年)4月19日、バイロン著、52歳の土井晩翠(どい・ばんすい、1871年12月5日~1952年10月19日)譯『チャイルド・ハロルドの巡禮』(二松堂書店、金港堂書店、3円)が刊行された。
1949年(昭和24年)4月10日、「英米名著叢書」、バイロン著、土井晩翠譯『チャイルド・ハロルドの巡禮』(新月社、270円)が刊行された。
1994年(平成6年)9月30日、京都で、バイロン著、東中稜代(ひがしなか・いつよ、1940年~)訳『チャイルド・ハロルドの巡礼』(修学社、税込み4,000円)が刊行された。
1995年(平成7年)2月28日、福岡で、ロード・バイロン著、田吹長彦(たぶき・たけひこ、1943年~)編『チャイルド・ハロルドの巡礼 : 第一篇 注解』(九州大学出版会、税込み5,974円)が刊行された。
映画劇『ローマン人の休日』Roman Holidayの脚本は当時は共産主義者として芸能界から追放されていたので、名前が伏せられていたが、46歳のドルトゥン・トランボ(Dalton Trumbo、1905年12月9日~1976年9月10日)だ。
身長190 cmの36歳のグレゴリ・ペック(Gregory Peck、1916年4月5日~ 2003年6月12日)がアメリカ連合国の新聞『アメリカ新報便(American News Service)』の記者ジョウ・ブラドゥリ(Joe Bradley)を演じ、身長170cmの23歳のオードゥリ・ヘップバーン(Audrey Hepburn、1929年5月4日~1993年1月20日)が某国のアン王女(Princess Ann)を演じている。
『ローマン人の休日』は、全篇がイターリアで撮影、現像された初のアメリカ映画となった。 ベルヒエ(België)出身のブリティッシュ人(British)のオードゥリ・ヘップバーンの初のアメリカ映画の主演作でもある。
1953年8月20日、第15回ヴェネーツィア多民界映画芸術祭(Mostra Internazionale d'Arte Cinematografica)で映画劇『ローマン人の休日』Roman Holidayが先行公開された。
1953年8月27日、ニュー・ヨークの放送都市音楽堂で、映画劇『ローマン人の休日』Roman Holidayが先行公開され、24歳のヘップバーンも立ち会った。
ヘップバーンの肖像は週刊報道誌『時代(Time)』1953年9月号の表紙に使われた。
1953年10月、ニュー・ヨークの1,847席のウォーナー劇場(Warner Theatre)で、19歳の皇太子明仁(1933年12月23日~)が映画劇『ローマン人の休日』Roman Holidayを鑑賞した。
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