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天狗党の乱、三好十郎『斬られの仙太』、映画劇『天狗党』

常陸国と公武の接近

徳川時代日本は諸国の上位にある江戸の公儀(将軍)と京都の禁裏(天皇)の二重権力体制だった。

1825年4月頃(文政8年3月)、常陸国ひたちのくにの統治者、28歳の徳川斉脩(とくがわ・なりのぶ、1797年4月12日~1829年10月31日)に献上するため、42歳の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい、1782年7月5日~1863年8月27日)が、天皇崇拝の公共道徳と日本民族界の軍事防衛を説く『新論』を述作した。

同書を教科書として、常陸国の一部の武士を中心に、日本全国を統一民界とみなす考え方が広まり始めた。

1857年(安政4年)、江戸で、正志會津先生著『新論』全二冊(玉山堂)が刊行された。

1936年(昭和11)年3月15日発行、日本弘道會有志青年部編『國體明徴國民讀本』(文英社、1円)の「國體」に従って、冒頭の一節を読み下す。

帝王(世界の支配者)のたのんで(あてにして)もって(それによって)四海しかい(文明の外)を保ち、しこうして久しく安く、長く治まり、天下動揺せざる所の者は、万民を畏服いふく(畏れて服従すること)せしめて、一世を把持はじ(掌握)するのいい(理由)にあらず。しかも億兆こころいつにして、皆其みなその上に親しんで離るゝに忍びざるのじつ(真心)こそ誠にたのむべきなり。

1862年9月24日(文久2年閏8月1日)、会津国統治者の26歳の松平容保(まつだいら・かたもり、1836年2月15日~1893年12月5日)が、大阪城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位にあり、非常時は京阪神の軍事指揮権をもつ京都守護職に就任した。

1863年4月21日(文久3年3月4日)、将軍として230年ぶりに、16歳の徳川家茂(とくがわ・いえもち、1846年7月17日~1866年8月29日)が上洛し、徳川一門の公儀の老中(将軍後見職)、25歳の一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ、1837年10月28日~1913年11月22日)と、31歳の天皇(1831年7月22日~1867年1月30日)と共に、京都鎮護の神を祀る賀茂(かも)神社を参拝した。
将軍が上洛したのは230年ぶり、天皇が公式に御所を出たのも237年ぶりのことだった。

1863年9月30日(文久3年8月18日)、薩摩国(さつまのくに)の武士は陸奥国(むつのくに)の武士らと連合して、急進的な王政復古・開戦派の公家、長門国(ながとのくに)の武士らを京都の朝廷から一掃した。
陸奥国の武士の下で京都市中の治安維持にあたっていた壬生浪士(みぶろうし)組は御所の警備を担当し、新撰組(しんせんぐみ)と改称した。

1863年の日本の推計人口は約3,300万で、15歳~64歳の人口は約2,100万、15歳未満の子供の人口は約1,000万人、65歳以上の人口は約200万だった。

1964年3月18日(元治元年2月11日)、長門国征伐のため、28歳の松平容保京都守護職を辞し、陸軍総裁に任じられた。

1864年4月30日(元治元年3月25日)、26歳の一橋慶喜が朝命により、将軍後見職を辞し、禁裏守衛総督に加え、摂海(せっかい)(大阪湾)防御指揮に任じられ、京阪神の軍事司令の最高責任者となった。

1864年5月2日(元治元年3月27日)から1865年1月17日(元治元年12月20日)にかけて、公儀に敵対する常陸国の武士の王政復古・開戦派のうちの急進派が常陸ひたち(茨城県)、下野しもつけ(栃木県)、下総しもうさ(千葉県北部と茨城県の南部)に各地の農民を率いて関東各地また中山道なかせんどうに転戦した事件は「天狗党の乱」と呼ばれる。

天保てんぽう(1830年~1844年)の頃から常陸国改革派の武士を天狗と呼ぶ習慣があった。

1864年5月2日(元治元年3月27日)、常陸国の急進的な王政復古・開戦派(天狗党)が「尊王攘夷(そんのうじょうい)」(天皇を唯一の最高権力者と死、通商を迫る外国を武力で追い払う政策)を旗印に筑波つくば山に挙兵すると、郷士、神官、博徒、農民ら約1000人がこれに加わった。

1964年5月12日(元治元年4月7日)、28歳の松平容保京都守護職に復職した。

1864年5月16日(元治元年4月11日)、公儀は京都市中の取締りを担う所司代(しょしだい)に、28歳の松平容保の弟、17歳の松平定敬(まつだいら・さだあき、1847年1月18日~1908年7月21日)を任じた。

1864年5月25日(元治元年4月20日)、26歳の一橋慶喜の構想に基づき、32歳の天皇が18歳の将軍・家茂に政務を委任した。
ただし「国家之大政大義」は例外で、朝廷に伺いを立てるものとされた。

1864年8月8日(元治元年7月7日)、諸国連合軍と天狗党との戦闘が始まった。

1864年11月15日(元治元年10月16日)~12月22日(11月24日)、アメリカ連合国大内戦終盤、北軍の44歳のウィリアム・シャーマン(William Sherman、1820年2月8日 ~1891年2月14日)将軍がアメリカ同盟国(Confederate States of America)(南軍)の早期降伏を目的として、南部同盟国の中心ジョージア国(State of Georgia )のアトゥランタ(Atlanta)から南東約400キロ先の港町サヴァナ(Savannah)までの主要部を、50キロから100キロ幅で破壊進撃した。

1865年2月(元治2年1月)、天狗党に加わった罪で、上総かずさ(千葉県)久留里くるりに禁固中の常陸国ひたちのくにの武士・林忠左衛門(1840年~1865年)が病死し、20歳の妻・中島歌子(1845年1月21日~1903年1月30日)も連座して2か月間投獄された。

山内昌之、中村彰彦『黒船以降:政治家と官僚の条件』

2006年(平成18年)1月10日、58歳の山内昌之(1947年8月30日~)、56歳の中村彰彦(1949年6月23日~)著『黒船以降政治家と官僚の条件』(中央公論新社、本体1,800円)が刊行された。

2009年(平成21年)1月25日、「中公文庫」、中村彰彦山内昌之著『黒船以降政治家と官僚の条件』(中央公論新社、本体762円)が刊行された。

同書の第二章「徳川斉昭と水戸学」より引用する(117~118頁)。

中村〕 天狗党は元治元年(一八六四)、幕府に攘夷(横浜再鎖港)を迫るため、藤田東湖の四男・小四郎や武田耕雲斎ら水戸藩の激派が集まり、筑波山で挙兵します。藩内各地で軍資金を強要し、拒否すると放火などして、多くの民が罹災しています。一方、幕府の援軍を得た諸生党の市川三左衛門らは、いったん天狗党と交戦して敗れると、水戸へ戻って天狗党の家族を処刑・投獄する。本当に聞くに堪えない凄惨なエピソードがたくさん残っています。
山内 あれはひどいですよね。首領の武田耕雲斎の家族だけでも、幼児にいたるまで血の粛清を受けたはずです。妻四十歳、息子二人それぞれ十歳と三歳、男孫それぞれ十五歳と十三歳と十歳は斬首になる。女孫十一歳、息子の妻四十三歳、武田の側室十八歳は永牢えいろう。いちばんむごいのは、首切役もさすがにためらった三歳の乳呑児を別人がむんずと体をつかんで短刀で刺殺したという話です。
 大佛次郎は、革命のモッブでも、世界中でこれほど残酷な復讐には出ていないといっています。しかも、天狗党と諸生党との内戦は、戊辰戦争が終わった後も続くのがむごい。
中村 天狗党の乱そのものは、翌毛慶応元年(一八六五)初めに鎮圧されますが、その三年後、旧幕府軍が新政府軍に敗れると、今度は、天狗党の首領として斬罪になった武田耕雲斎の孫・金次郎らが報復に出ます。市川三左衛門は水戸を脱出し、旧幕府軍とともに奥州を転戦しますが、戊辰戦争が終わると水戸に戻っていくしかない。そこでまた天狗党の残党と戦闘になり、結局、諸生党は壊滅し、市川はリンチ同然に処刑され、やっと内乱は終結するわけです。
山内 とにかく金次郎はすごい。天誅や朝敵と称して人を切りまくる。しかも、諸生党だけでなく穏健な天狗や鎮派も容赦しない。尊王も攘夷もない。あるのは一途な復讐の念だけです。金次郎の天誅騒ぎが一段落するのは、明治二年から三年あたりでしょうかね。門閥の朝比奈知泉あさひなちせんの家に残されたのは十二、三歳くらいが最年長の幼児ばかりだったというから同害報復は徹底していました。

朝井まかて『恋歌』

2013年(平成25年)8月21日、中島歌子の生涯を描く、53歳の朝井まかて(1959年8月15日~)著『恋歌(れんか)』(講談社、本体1,600円)が刊行された。
装幀は川上成夫(?~2017年12月25日)だ。

2014年(平成26年)1月16日、第150回平成25年/2013年下半期直木賞の受賞作が、朝井まかて著『恋歌』、2013年(平成25年)9月10日発行、55歳の姫野カオルコ(1958年8月27日~)著『昭和の犬』(幻冬舎、本体1,600円)に決定したことが発表された。

2015年(平成27年)1月5日、21:00より23:24まで、フジテレビで『SMAP×SMAP』『バカ殿様も杏も東出昌大も斎藤工もめでたい新春SP!』が放映された。

SMAPメンバーが調理中、読書家として知られる28歳の(1986年4月14日~)が昨年刊行された本の中からおススメベスト3を紹介した。

3位は犬の目線で幕末・明治を描いたノンフィクション、2014年(平成26年)7月25日発行、仁科邦男(にしな・くにお、1948年~)著『犬たちの明治維新ポチの誕生』(草思社、本体1,600円)、2位は2011年3月11日の東日本大震災後に赴任した教師と子どもたちの交流を描いた、2014年(平成26年)3月11日発行、51歳の真山仁(1962年7月4日~)著『そして、星の輝く夜がくる』(講談社、本体1,500円)、1位は『恋歌』だった。

2015年(平成27年)10月15日、「講談社文庫」、朝井まかて著『恋歌』(講談社、本体720円)が刊行された。
帯表紙に29歳のの「彼女の恋を追いかけるのに、立ち止まる必要は無かった」の推薦文が掲載された。

三好十郎『斬られの仙太』

1934年(昭和9年)4月21日、31歳の三好十郎(みよし・じゅうろう、1902年4月23日~1958年12月16日) 著『天狗外傳斬られの仙太』(ナウカ社 、1円)が刊行された。 

装幀は24歳の島公靖(1909年6月13日~1992年7月25日)だ。

常陸国の真壁の荒地沼地開墾の新田の百姓・仙太郎が、偶然にも水戸浪士・加多源次郎と長州藩士・兵藤治之と出会い、天狗党に入党する。

1934年(昭和9年)5月12日から31日まで、築地小劇場で、中央劇場三好十郎作、36歳の佐々木孝丸(1898年1月30日~1986年12月28日)演出『斬られの仙太』が初演された。

1949年(昭和24年)4月5日、森田信義プロダクションの第一回作、三好十郎原作、46歳の瀧澤英輔(1902年9月6日~1965年11月29日)脚色・演出、37歳の藤田進(1912年1月8日~1990年3月23日)、30歳の花井蘭子(1918年7月15日~1961年5月21日)主演の映画劇『斬られの仙太』(95分)が公開された。

1967年(昭和42年)は、慶応3年10月15日(1867年11月10日)の大政奉還から100年目の年だった。

1967年(昭和42年)1月1日から1973年(昭和48年)4月25日まで『朝日新聞』朝刊に大佛次郎(おさらぎ・じろう、1897年10月9日 ~1973年4月30日)の歴史小説『天皇の世紀』が1,555回連載された。

1968年(昭和43年)8月31日から9月26日まで、東横劇場で、劇団民藝三好十郎作、53歳の宇野重吉(1914年9月27日~1988年1月9日)演出『斬られの仙太』が公演された。
第四場と1884年(明治17年)8月末に設定された最後の第十場を削除したものだった。

1968年(昭和43年)10月1日から9日まで、名古屋・名鉄ホール、10月11日から13日まで、神戸・国際会館、10月15日から26日まで、大阪・毎日ホール、10月27日から11月2日まで、京都会館第二ホール、11月3日、京都・ヤサカ会館、11月5日、福井市文化会館でも公演がおこなわれた。

1969年(昭和44年)2月25日、大佛次郎著『天皇の世紀』第1巻「黒船」(朝日新聞社、1,300円)が刊行された。

映画劇『天狗党』

1969年(昭和44年)11月15日、三好十郎斬られの仙太』原作、59歳の山本薩夫(1910年7月15日~1983年8月11日)監督、36歳の仲代達矢(なかだい・たつや、1932年12月13日~)、31歳の加藤剛(かとう・ごう、1938年2月4日~2018年6月18日)、35歳の若尾文子(わかお・あやこ、1933年11月8日~)共演[のカラー映画劇『天狗党』(105分)が公開された。

1860年頃、仕置場
検分の刑吏「真壁村百姓・平七・四十七歳、お上御慈悲ある計いの次第を申し上げろ」
平七越川一)「叩き放し、村方お構いでございます」
刑吏「同じく百姓・仙右衛門・四十七歳」
仙太郎の兄仙右衛門夏木章、1928年1月6日 ~?)「叩き、叩き放し、村方お構いの御仕置でございます」
刑吏「同じく仙右衛門・弟・仙太郎・三十一歳」
激しく抵抗する仙太郎仲代達矢)を押さえつける代役「申し上げます。百叩き、村方お構いで」
代官所役人「うむ、不服だと申すのか」
ヤクザの北条の喜平清水彰)「申し訳ございません。きちがい犬みたいな野郎でして。きっと御仕置を。勘助。そこのきちがいから始めな」
勘助守田学)「へえ」
北条の喜平「神妙に御仕置を受けろ」
仙太郎の友人の百姓段六山田吾一、1933年2月20日~2012年10月13日)(柵にすがりつき)「仙太公!仙太公!」
北条の喜平「お上御慈悲の御取り計いじゃ。向後の為、忘れまいぞ!」

瓦版売り佐野浅夫、1925年8月13日~2022年6月28日)「アーリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャリャーイ。買った、買った、買った、買った、そーら買った。今出たばかりの早刷り瓦版! 一枚三文、二枚で五文! 所は常陸の国、空っ風でおなじみの筑波のお山で暴れまわっていた天狗が大変じゃ、大変じゃ! さあて、利あらずと見て逃げるは天狗、追うは田沼勢。その間になあ、水戸様じゃ内輪揉めだ。ドンドンパチパチ大砲おおづつ小筒、鳴るは蜂の頭、引くは天狗の鼻、さあてこの次第如何いかが相成りまするか! さあ、買った、買った、買った、買った、買った! 買った、買った! ケチケチすんな江戸っ児だ。買った! ようしよし。じゃあこれだけはな、御愛嬌に薩摩さつまかみだ、そーれ、おい!(と瓦版を宙に投げる)

併映は、37歳の石松愛弘(1932年6月1日~)脚本、43歳の井上芳夫(1926年9月8日~?)監督、27歳の江波杏子(1942年10月15日~2018年10月27日)主演、「女賭博師」シリーズ第十五作『女賭博師花の切り札』(85分)だった。

1969年(昭和44年)12月、大映レコードから、大映映画「女賭博師シリーズ」主題歌江波杏子(歌)、大映レコーディング・オーケストラ銀子の唄」(4分06秒)、大映映画「女賭博師シリーズ」主題歌、「いのち花ブルース」(3分17秒)のシングル盤(D-103、370円)が発売された。

作詩は丹古晴己(たんご・はるき、1923年11月11日~2012年9月7日)、作曲は鈴木淳(1934年2月7日~ 2021年12月9日)、編曲は湯野カオル(1939年6月30日~)だ。

テレビ劇『天皇の世紀』第一部・第13話「壊滅」

1970年(昭和45年)8月15日、大佛次郎著『天皇の世紀』第5巻「長州」(朝日新聞社、1,300円)が刊行された。天狗党の乱の話が収められた。

1971年(昭和46年)9月4日から11月27日まで、朝日放送開局20周年記念番組として、22:00~23:00、TBSで、大佛次郎原作、1話完結、全13話のテレビ劇『天皇の世紀』が放映された。
音楽は40歳の武満徹(1930年10月8日~1996年2月20日)だ。

1971年(昭和46年)11月27日、TBSで、『天皇の世紀』第一部・第13話、59歳の新藤兼人(1912年4月22日~2012年5月29日)は脚本、60歳の吉村公三郎(よしむら・こうざぶろう、1911年9月9日~ 2000年11月7日)監督「壊滅」が放映された。

20世紀以後にすたれた用語が用いられている上、歴史・地理上の固有名詞の説明が不足気味で、関連する歴史や地理に疎い者には、叙述の細部や人間関係、地理関係がわかりにくい。

64歳の滝沢修(1906年11月13日~2000年6月22日)のナレーションには、地名などの読み間違いと思われる箇所もあるし、聞き取りづらい箇所も多い。

常州じょうしゅう常陸国ひたちのくに潮来たこの新地の川に面した遊郭の二階で着物を着たまま寝ている女郎の横に寝ていた藤田小四郎峰岸徹、1943年7月17日~2008年10月11日)が目を覚ます。
ナレーション「藤田小四郎・二十二歳。水戸藩・藤田東湖の遺子である。文久三年二月(1863年3月22日)、藩主(徳川慶篤よしあつ)に従って京都に出てから、各藩の志士と交際し、若いが胆力のある志士として成長した」
小四郎は窓から利根川を通る舟を見下ろす。
「水戸はかつて日本にっぽん中の攘夷の家元のようなものであった。水戸藩といえば攘夷で通る。小四郎は桂小五郎などと面会し、東西呼応して事を挙げる相談を進めた」
前夜の回想。同じ部屋で岩谷敬一郎西川宏、1940年11月12日~)、竹内百太郎原田清人、1935年9月2日~)、小四郎の三人が酒を酌み交わす。
「事を挙げる相談はまず三人で始まった。岩谷敬一郎は真言宗の山伏で学問も剣道もできた。藩の学校・小川館の取り締まりをしていた竹内百太郎は安食あじき郷士ごうしである 」

「天狗党は筑波山を下りて日光山に向かった。東照宮の神殿のある日光ならば幕府が追討の兵を差し向けるようなことはあるまいという思惑であった」

「元治元年4月3日」(1864年5月8日)

堂々と武装集団の隊伍を組んで宇都宮に入った。直ちに藩は金一千両を寄贈した。感情を緩和する世慣れたやり方である」

小四郎が天狗党幹部の集まる部屋に戻る。
「おい、みんな、千両持ってきたそうだぞ。宇都宮藩はわれわれに好意を持っているようだな」
田中原蔵渡辺篤史、1947年11月28日~)「ハハハ。そうらしいな。ま、一杯いこうや。な?」

「しかし、その間に、宇都宮藩は日光警備を幕府に申請し、近傍の諸大名にも連絡を取って、日光山神廟の警護を厳重にした。そして旨意柄しいがらは至極同感だが、藩としては公然義挙に同意することはできないと断ってきた」

田中原蔵「宇都宮の奴ら、俺たちを騙したんだ。踏みつぶそう。許せない! 決戦だ!」
小四郎「まあまあまあ。待て、待て! 宇都宮と事を構えては、幕府に反抗することになる」
斉藤左次衛門村上幹夫、1932年6月26日~2018年9月29日)「それもそうだな」
田中原蔵「貴様たちは何かと言えば、幕府、幕府とたじろいどるが、そんなことで攘夷の狼煙のろしが上げられるのか!」
小四郎「幕府に追討ちの兵でも出されたらどうなる! 折角挙げた攘夷の先鋒が崩れてしまう」
田中原蔵「討幕だ! 幕府を倒して攘夷を行うんだ」

「夜襲は成功した。幕府軍は脆くも壊滅し、敗走した。市川三左衛門ら水戸の者たちは、このどさくさに水戸の城に入り、なんなく市川派をもって制圧したのである。ここに至って苦しい立場に置かれたのは武田耕雲斎である。江戸へは出られず、水戸へも帰れないことになった」

武田耕雲斉加藤嘉(かとう・よし、1913年1月12日~1988年3月1日)が演じた。

「筑波に発生した小台風は、水戸全般を土台から揺さぶる台風に拡がったのである。藩主慶篤は混乱を鎮めるために幕府に願い出て、支藩・宍戸藩主・松平大炊頭頼徳おおいのかみ・よりのりを水戸に下向せしめた。江戸で謹慎を命じられていた山国兵部やまぐに・ひょうぶは、この機会を捉えようとして密かに随行した。武田耕雲斉にとっても、これは水戸に帰るよい機会であった。大炊頭一行に加わった」

松平頼徳入江正徳(1927年3月13日~)が演じた。
山国兵部香川良介(1896年10月10日~1987年4月17日)が演じた。

2021年(令和3年)5月25日、「新潮選書」、57歳の片山杜秀(かたやま・もりひで、1963年8月29日~)著『尊王攘夷水戸学の四百年』(新潮社、本体2,000円)が刊行された。
新潮45』(新潮社)2015年(平成27年)8月号~2018年(平成30年)10月号、『新潮』(新潮社)2019年(令和元年)7月号~2020年(令和2年)8月号に連載された『水戸学の世界地図』を加筆・改題した。


同書の第七章「「最後の将軍」とともに滅びぬ」、四「三島由紀夫の曾祖母の兄の切腹」より引用する(440頁)。

 大名が死罪とされたのは、長い江戸時代を通じても、島原の乱の松倉勝家や赤穂事件の浅野内匠頭など、ほんの何人しかおるまい。その最後の人が、松平頼徳であった。
 もちろん、大名の切腹が、現場責任者の若年寄や大目付だけで決められるとは思われない。幕閣での出世を目指す田沼意尊がそんな独断専行をするわけもない。そこには高度な政治的取引があったとみるべきであろう。水戸藩でこれだけの大騒動があったのに、父の斉昭を反面教師にして、隠居や謹慎させられることを恐れていた、水戸藩主徳川慶篤には、さしたる咎めもなかった。〝水戸藩の副将軍〟は〝天下の副将軍〟の身代わりにされ、頼徳が同情した、尊王攘夷の熱い志に満ちる天狗党の反乱軍認定も揺らがなかった。天下の副将軍の尊王心が、幕府に尊皇精神をたぎらせ、皇国日本を護持し、水戸藩士はそんな悠久の大義を生きる。徳川光圀のデザインした水戸の精神は、天下の副将軍自らによって裏切られたのかもしれない。頼徳の屈辱に満ちた切腹によって、水戸学はひとつの死を迎えたと言ってよい。彼が三島由紀夫の曾祖母の兄だとうことは、以前にも触れた。頼徳の辞世の歌を引く。
「思ひきや野田の案山子の竹の弓引きも放たで朽果てむとは」

斉藤左次衛門「大炊頭は城へ入ることを望んできたのだが、ずるずると水戸藩の派閥争いに巻き込まれてしまった。市川三左衛門の方は、この機会に徹底的に反対党に打撃を与えようとする意図だから、激しく挑発する。とうとう戦闘になって、大炊頭は逃れて、那珂湊なかみなとへ逃れようとした。ところが那珂湊の城兵が迎え討ってきた」
小四郎「武田耕雲斉も一緒か?」
斉藤左次衛門「もちろん。榊原さかきばら(水戸藩家老・榊原照煦てるあき)一党もだ」
岩谷敬一郎「討って出て、水戸勢を叩こう!」
田丸稲之衛門小山源喜、1915年7月8日~1991年4月11日)「うむ、よかろう」

「幕府の筑波勢討伐隊が新たな編成で水戸へ入ってきた。総督は田沼玄蕃頭げんばんのかみである」

田沼意尊・玄蕃頭を森幹太(もり・かんた、1924年1月19日~2000年11月15日)が演じた。

山国兵部「松平大炊頭が少人数の家来を連れて、密かに脱出しました」
耕雲斉「知っておる。夏海村なつみむらに陣を敷いている幕府方の旗本・戸田五助に身を投じたのだ。数日前より密かに内談が行われていたのだ」
山国兵部「今さら、おめおめと敵に下るとは。許しておいていいんですか!」
耕雲斉「脱出を止める理由はない。大炊頭は水戸内紛の鎮撫ちんぶに来たのであって、戦をしに来たのではない。幕府方に投じて、毛頭幕府と戦う意志のないことを示したいのは当然だろう。しかし、こちらはちょっと都合が悪くなってきたな」

元治元年10月5日(1864年11月4日)、水戸藩の支族・松平頼遵邸にて、33歳の松平頼徳は切腹させられた。

元治元年10月16日(1864年11月15日)、20歳そこそこの田中原蔵が久慈川の河原で斬首された。

「市川三左衛門の諸生党は幕府軍の応援のもとに、この際、武田耕雲斉らに賊名ぞくめいを着せて徹底的に葬る決意であった。武田耕雲斉、藤田小四郎たちは、包囲軍の囲みを破って脱出した。武田耕雲斉は心ならずも、藤田小四郎の天狗党と行を共にすることになった。彼らの退却を遮って、至る所に*兵が蜂起した。10月25日、久慈くじ大子村たいごむらに到着した」

小四郎「死ぬことはないです。死んではいけませんよ。死なねばならない理由がありません」
耕雲斉「私は藩の執政だったのだ。市川三左衛門などに、賊徒と呼ばれる覚えはない。しかしながら、これも時の定めだ。生き恥を晒すより、いっそひと思いに死に場所を明らかにした方が潔いのだ」
小四郎「いかなる理由があろうとも、死ねば負けです」
耕雲斉「だが見ただろう。生きて成算はない。*どもが私たちを追って来るではないか。私はあれを見て惨めでたまらなかった」
小四郎「*どもは強い方につきたがるのです。われわれが盛り返せば、われわれの味方です。京へ上りましょう」
耕雲斉「京へ?」
小四郎「大挙して京へ上り、天子の御前に伏して、われわれの攘夷の初志を明らかにするのです」
耕雲斉「この軍勢を率いて?」
小四郎「そうです。脱落する者も出るでしょうが、参加する者たちの方が多いでしょう。京に出れば全国の志士がわれらを待っています。禁裏きんり御守衛総督の一橋慶喜ひとつばし・よしのぶ公に訴え、われらの志を天聴に達するよう計らってもらうんです。慶喜公は水戸の生まれです。われわれの立場を理解して下さるに違いない」

「11月1日、大子村を出発、武田耕雲斉を全軍の将として総勢千余人、下仁田しもにだ(11月16日)を経て信州路しんしゅうじに取り、和田峠(11月20日)を越えて下諏訪しもすわに出る」

伊那谷いなだに(11月23日)を南下して、上清内路かみせいないじから中山道なかせんどう馬籠まごめ(11月26日)に抜ける」

美濃路みのじに上りて、中津川(11月27日)、大井を経て、揖斐いび(12月1日)に出る。ここで彦根、大垣両藩が出兵して前途を塞いだことを知って、道を転じて谷汲たにぐみ街道に入って蝿帽子峠はえぼうしとうげ(12月4日)を越える」

越前えちぜん黒当戸くろとうどを出て、さらに峠越えをし、木ノ本村きのもとむら小倉谷おぐらだに今庄いまじょう、木ノ芽峠を越えて、越前敦賀つるが新保しんぽ駅に出る。時に12月11日」

「琵琶湖北岸の海津かいづは北陸に通じる要衝の地である。この時、一橋慶喜は水戸藩の民部みんぶ大輔おおすけ昭徳あきのりを率いてここに出陣していた。もちろん天狗党を鎮圧するためである。武田耕雲斉、藤田小四郎が自分を頼んで遙かな地より行進を起こした窮状はわかっていたが、幕府に対する反乱軍を京の地に入れては、禁裏御守衛総督としての政治的立場が困るのだ。水戸藩が先頭になり、金沢、大垣、彦根の諸藩に出兵を命じた。*が押し寄せてきたから早々出馬せよとの徴令であった」

一橋慶喜松橋登(1944年11月3日~)が演じた。

舟町(敦賀市)の獄舎の鰊倉にしんぐらで小四郎の隣にいる、耕雲斎の五男・源五郎佐藤吉伸)「くそお。ひどい。何のためだ。どんな遺恨だ。これはひどい」
(耕雲斎の孫・金次郎に)「金次郎、お前は遠島だ。死ぬなよ。この有様をその目でよおく見ておくのだ。焼き付けておくのだ。それを水戸へ帰って話すのだ」

武田金次郎村田則男(1948年6月14日~2013年7月5日)が演じた。

1974年(昭和49年)7月30日、作者の死後刊行となった、大佛次郎著『天皇の世紀』第10巻「金城自壊、総索引」(朝日新聞社、2,000円)が刊行された。

山田風太郎『魔群の通過』

1978年(昭和53年)1月30日、天狗党の乱を描く、56歳の山田風太郎(やまだ・ふうたろう、1922年1月4日~2001年7月28日)著『魔群の通過』(光文社、980円)が刊行された。

装幀は39歳の辰巳四郎(たつみ・しろう、1938年3月24日~2003年11月5日)だ。

劇団文化座『斬られの仙太』

1988年(昭和63年)2月4日から14日まで、サンシャイン劇場で、劇団創立45周年記念・三好十郎没後30周年記念、劇団文化座、53歳の秋浜悟史(あきはま・さとし、1934年3月20日~2005年7月31日)演出『斬られの仙太』が公演された。

吉村昭『天狗争乱』

1994年(平成6年)5月1日、天狗党の乱を描く、66歳の吉村昭(1927年5月1日~2006年7月31日)著『天狗争乱』(朝日新聞社、税込1,800円)が刊行された。

上村聡史演出『斬られの仙太』

2021年(令和3年)4月6日から24日まで、東京・初台の新国立劇場の小劇場で、「人を思うちから 其の壱」、三好十郎作、41歳の上村聡史(1979年7月18日~)演出『斬られの仙太』が公演された。
仙太を45歳の伊達暁(だて・さとる、1975年7月14日~)が演じた。加多源治郎を35歳の小泉将臣(1986年2月18日~)が演じた。

2021年(令和3年)6月6日、23:20より27:06まで、NHK BSプレミアム「プレミアムステージ」で新国立劇場『斬られの仙太』の舞台公演録画が放送された。


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