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1951年の映画劇『麥秋』の海と山、『天衣紛上野初花』

 『麥秋』の大和と入江泰吉

  1951年(昭和26年)6月1日発行の『映画評論』(映画出版社)6月号(100円)に、57歳の野田高梧(のだ・こうご、1893年11月19日~1968年9月23日)、47歳の小津安二郎(1903年12月12日~1963年12月12日)のシナリオ『麥秋』が掲載された。

 1951年(昭和26年)6月から9月にかけて、47歳の小津安二郎監督の松竹映画劇『麥秋』(124分)の撮影がおこなわれ、10月3日に公開された。
 「麦秋」とは、麦の収穫期で、初夏に当たる。

 1951年(昭和26年)12月1日発行の『スタア』(スタア社)12月号(80円)より、47歳の南部圭之助(1904年4月5日~1987年10月26日)「映畫は如何にして見るか:「麦秋」を通して」を引用する(20頁)。

 「麦秋」の優劣点
優れた点☆ A・純日本的の佇(たたずまい)を美しい画像と一つの統一された映画の呼吸を通して完全に見せた点で、劃期的である。B・映像の展開を第一主眼においている点は<純粹映画的>に見て確然たるオーソドックスの主張である。C・シナリオはかなりこまかな点にまで気を配つている。D・純粹な江戸弁を一部分できくことが出來る。E・風俗的に見て、女の後ろ姿の<美>をかなり成功裡に描き出している。F・ヒロインに与えた若い女性の優雅さは近代日本的という点で今迄のどの日本映画よりも美しい。

欠点☆ A・子供(二人の男の子)への愛情と教育に全く無知であつて、スタイル(画風)の日本的ということと全く相反する。B・スタイルの統一を强行した結果、性格や、その時々に必要なテンポをも省みられないちう無理が出來る。卽ち当然ショットを割るべきところを、キャメラは我慢してジッとしていなければならない結果となる。C・そうした一種の身ぎれいさは、一方においては正面演技を强行し、全体にわたつて、必要以上に貴族趣味に偏じた感じを与える。D・映画シナリオの甘さと限界はとくに指摘さるべく、<苦労のない人生>の甘さがありありと感じられる。E・クライマックスをすぎてからの間宮家の収拾その他に依る三十場面近くは全く冗漫で、シナリオ全体の構成上の重傷的欠陷である。F・同時に不必要な場面が多く、一方、重要な人物の心理の結末を放り出している。

☆要するに之は、スタイルの上では、ニシキ絵を黒白のフィルムにした様な感じで、日本的という意味で、特異的な映画であるが、それをもつて<日本現代生活の讃歌>と見るには、作者の生活への考え方は絵ゾウシの様な甘さに充ち、且つ家庭の設計がデタラメである。卽ち外形的には日本的であるが、内容は非常に上すべりした、苦労を知らぬ老大家の風貌が多すぎる。
 以下場面を追つて批評してみよう。

   1951年(昭和26年)12月28日、29日の二日間、新宿松竹と銀座松竹で、映画劇『麥秋』が特別興行された。

 北鎌倉に暮らす68歳の植物学者・間宮周吉の28歳の長女・紀子を31歳の原節子(1920年6月17日~ 2015年9月5日)、38歳で都内の病院に勤める医師の長男・康一を47歳の笠智衆(1904年5月13日~1993年3月16日)、康一の妻、35歳の史子を34歳の三宅邦子(1916年9月17日~1992年11月4日)が演じた。
 康一の同僚の医師で、2年前に妻を亡くし、娘に3歳の光子(伊藤和代)がいる矢部謙吉を33歳の二本柳寛(にほんやなぎ・ひろし、1917年11月20日~ 1970年1月28日)、謙吉と光子と同居する謙吉の母、矢部たみを45歳の杉村春子(1906年1月6日~1997年4月4日)が演じた。

 1952年(昭和27年)10月20日、小津安二郎野田高梧著『お茶漬の味・他』(靑山書院、290円、地方売価300円)が刊行された。
 映画劇の脚本『お茶漬の味』、『麦秋』、『晩春』を収めた。

     2016年(平成28年)2月15日、第66回ベアリーン国際映画祭の古典部門で『麥秋』Bakushū(125分)の4Kデジタル修復版が先行公開された。

    2018年(平成30年)6月16日~22日、新宿ピカデリー、6月23日~7月7日、角川シネマ新宿で特集上映「小津4K巨匠が見つめた7つの家族」が催された。
2018年(平成30年)6月18日に『麥秋』の4Kデジタル修復版が公開された。

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 映画『麥秋』は、由比ヶ浜ゆいがはまの渚をうろつく野良犬をとらえた遠景で始まる。海の向こうに扇山おうぎやまが見える。犬は画面を横切り、画面外に出て行く。

「麦秋」波

 波が打ち寄せる。

「麦秋」カナリアの籠

 続いて北鎌倉の間宮家の軒下に吊るされた鳥かごの中のカナリアの場面に転換する。

「麦秋」縁側

 続いて間宮家の縁側の端の台の上の鳥かごと、縁側手前の台の上の鳥かごの場面に転換する。

「麦秋」耳成山1
「麦秋」耳成山2
「麦秋」耳成山3
「麦秋」耳成山4

 映画『麥秋』は最後に、奈良なら橿原かしはら市にある標高139.7mの耳成山みみなしやま南麓なんろく大和棟やまとむねの屋根、漆喰しっくい白壁しらかべの集落と周囲の麦畑の光景で終わる。

 1993年(平成5年)12月12日発行、小津安二郎著、47歳の田中眞澄(1946年2月11日~2011年12月30日)編纂『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社、本体5,000円)によると、1951年(昭和26年)5月18日に47歳の小津は奈良で45歳の入江泰吉(1905年11月5日~1992年1月16日)と会ったのち、19日に耳成みみなしに行き、撮影場所を決めた。
 1951年 (昭和26年)5月22日に耳成山みみなしやま南麓なんろくの撮影がおこなわれたがやや曇天どんてんだったため、23日の晴天の日に改めて撮影された。

 8年後、53歳の入江は1959年(昭和34年)5月、同じ集落の鯉のぼりを映した「飛鳥の里(耳成山麓)」を撮っているので、併せて鑑賞すると興味深いだろう。

 『麥秋』の最後の場面は、耳成山みみなしやま南麓なんろくの民家群と麦畑をとらえた二つの画面に続き、山の稜線りょうせんの全体を見渡せる遠方から右方向への横移動で耳成山みみなしやまと麦畑をとらえた画面だ。この横移動のショットは溶暗ようあんする。
 麦は題名にある麦を視覚化したものだろう。

 1953年(昭和28年)11月30日、「創元選書」244、龜井勝一郎(1907年2月6日~1966年11月14日)著、入江泰吉寫眞『寫眞版大和古寺風物誌』(創元社、450円)が刊行された。

 『芸術新潮』(新潮社)1992年(平成4年)4月号「追悼特集写真家・入江泰吉が残そうとした奈良」が刊行された。
 入江泰吉大和路、運命の出会い」、白洲正子(1910年1月7日~1998年12月26日)「入江さんと歩く大和路」、飯沢耕太郎(1954年3月26日~)「〝偉大なる凡庸〟を貫いて」、筒井寛秀(1921年~2010年1月23日)「〝大和路の写真家〟誕生に立ち会った」、久我高照(1921年~2011年10月31日)「入江さんの見つけた法隆寺」、森本孝順(1902年11月17日~1995年6月19日)「天井裏の入江さん」、安田暎胤(1938年2月9日~)「西塔ができた時」、高田良信(1941年2月22日~2017年4月26日)「カメラで絵を描いた入江先生」、入江光枝夫・入江泰吉のこと」が掲載された。

 1992年(平成4年)9月20日、「とんぼの本」、入江泰吉白洲正子他著『入江泰吉の奈良』(新潮社、1,400円)が刊行された。
 『芸術新潮』「追悼特集:写真家・入江泰吉が残そうとした奈良」掲載の文章が再録された。 

 映画劇『麥秋』と歌舞伎座の『天衣紛上野初花』


 1951年(昭和26年)1月3日、東京都中央区銀座で、松竹経営、吉田五十八(よしだ・いそや、1894年12月19日~1974年3月24日)の復興修築により復興した歌舞伎専用の劇場「歌舞伎座」が復興開場した。
この歌舞伎座は、2020年(令和2年)4月28日の公演を最後に閉館し、解体された。休館中の歌舞伎公演は新橋演芸場でおこなわれた。

 映画劇『麥秋』の歌舞伎座の場面は、正面入口の『第三 天衣紛上野初花 二幕 松江邸玄関先の場』「第一部 十時 第二部 四時」の表示で始まる。
 1881年(明治14年)3月に東京の新富座で初演された『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』は第二部の第三演目だ。「松江邸玄関先の場」は第三場だ。
 
 江戸の下谷長者町したやちょうじゃまちの質屋の上州屋じゅしゅうやの跡取り娘の浪路なみじは腰元(小間使い)奉公している横暴な大名の松江まつえ家の松平出雲守まつだいら・いずものかみの屋敷に軟禁されている。
 江戸城で大名や家臣たちにお茶を出すお数寄屋すきや坊主の河内山宗俊こうちやま・そうしゅんは、上野輪王寺宮りんのうじのみや(天台宗の上野東叡山寛永寺とうえいざん・かんえいじ貫主かんじゅは「輪王寺宮りんのうじのみや一品親王いっぽんしんのう」と呼ばれ、将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川の名字を称することを認められていた御三家に準じる家格・格式だった)の使僧しそう北谷道海きただに・どうかいと偽って、波路を取り返しに行く。
 松江家の家臣、北村大膳きたむら・だいぜんが駆けつけ、左の頬にある黒子ほくろを証拠に、河内山こうちやまの正体を見破り、捕らえようとするが、家老の高木小左衛門たかぎ・こざえもんは松江家の名に傷が付くことを避けるため、河内山こうちやまをあくまでも宮の使いとして送り出す。

 映画劇『麥秋』では、演者は画面に現れず、宗俊の台詞が場面を越えて続く。

悪に強きは善にもと、世のたとえにも言う通り、親の嘆きが不憫ふびんさに、娘の命を助けようと、腹にたくみの魂胆を[下谷の]練塀小路ねりべいこうじ(魂胆を「練る」とかける)に隠れのねえ、お数寄屋すきや坊主の宗俊が頭の丸いをせえええに、法衣ころもでしが(「欠点」のこと)を忍ぶが岡(「忍ぶが岡」は上野山一帯のこと。しがを「忍ぶ」とかける)。神の御末みすえ一品親王いっぽんしんのう、宮の使えと偽って、

 ここから北鎌倉の間宮家のラジオ受信機から流れるの中継放送の音声に切り替わる。

神風よりゃァ御威光の、風を吹かして大胆にも、出雲守いずものかみ上屋敷かみやしきへ仕掛けた仕事のいわく窓(「曰く窓」は、武家屋敷の道路に面した壁に作られた、横木が入り「曰」の字に似ている窓。「曰く」とかける)。家中一統いっとう白壁しらかべ(「知らねえ」とかける」)と、思いのほかにけえりがけ、とんだところへ北村(「来た」とかける)大……。

 映画劇『麥秋』の茅ヶ崎と動作途中編集

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