lemar

エッセイ 小説 写真

lemar

エッセイ 小説 写真

マガジン

最近の記事

ペトリコール

 いつの間にか雨が降っていたようで駐車場のアスファルトが黒く濡れていた。雨上がりの独特の匂いが鼻孔に懐かしい。これはゲオスミンという物質が空気中に放出される時に出る匂いだ。確かペトリコールという名前もついていた。この名前を教えてくれた姉さんとはもう何年も連絡をとっていない。両親が離婚した後暫くして一度会いに来たのは自分が小学校の頃の事だからもう二十年近く会っていないことになる。姉さんは父親の葬式にも来なかった。だからきっと母さんも連絡先は知らないだろう。その母とも五年以上顔を

    • 泡と沫

       若くで亡くなった学生時代の友人の夢を見た。  と言っても直接彼女が出てきたわけではない。正確には夢の中で彼女のことを思い出したのだ。  彼女が亡くなったのは生まれたばかりの息子に障害が見つかって絶望の底にいた頃だった。彼女の死を知らせる共通の友人から電話に驚きながら息子のために涙を流し過ぎた私は彼女の死の重みを正しく捉えることができなかったものだ。    過去の再現のような夢の中の私は自分の涙に溺れそうになりながら彼女の為に悲しんでいた。電話の向こうの友人と泣きながら葬儀

      • セイギノヒト

         曇天の早朝はいつもより騒がしく始まった。ゴミの集積所の真ん前にリビングのある我が家は収集車のくる8時まで分厚いカーテンを閉め切って息を殺してやり過ごすのだ。  大きなお屋敷を取り壊した後に建った30軒の新築物件は我が家を除いて建築中に早々に契約が整ったそうだ。つまり我が家は売れ残りの物件だったということになる。  そりゃあそうだ。夏の午前中は生ゴミの匂いが部屋まで入り込んでくるし、今日のような粗大ゴミの日は朝早くから煩くて仕方ない。特に今日は…。  私は自治会のくれた粗大ゴ

        • let me drive your car

           夫が片目の視力を失ったのはふとした怪我がきっかけだった。突然光を失った夫はさぞかしショックだったろう。だが夫は私の知る限り仕事も日常のアレコレも両目で見ていた時と殆ど変わりなく過ごしていた。傍目には夫は悲観も怒りも持たないように見えた。本当の心のうちは想像でしかないがそれは人生における夫なりの流儀だったのだと思う。ただ失明のせいで運転免許を失った事だけは非常に残念がった。  これまではずっと運転席が夫の定位置だったが必然的に運転は私の役目となり、夫はこれまで私が座っていた助

        ペトリコール

        マガジン

        • 小説
          13本
        • 雑文
          5本

        記事

          憂鬱だなと思った瞬間にソレは出てくる ソレがいつからいたのか いつから見えるようになったのか よく覚えていない でも学校から帰る道々のどこかいつか 気付くといつのまにかソレはいた どうやら私の足の指の間から生まれてくるソレは くねりながら靴の紐の穴の隙間から出てくる でも私が踏み潰すと妙な声を上げて簡単に潰れた

          研鑽

          彼女が満足げに目を閉じるとそれは腕を絡める合図だ。彼女の腰を抱き寄せると彼女の胸が僕の脇に丁度いい具合にはまり込む。賢者タイムの作法は全て彼女が教えてくれた。彼女の門弟が何人いるのか僕は知らない。僕もいつかは兄弟子たちや彼女に作法を教えた師匠のように彼女の時間から消えるのだろう。

          Upbringing

           官能の後、絶妙のタイミングで回される腕は上腕二頭筋の丁度真ん中に私の額が当たるよう調整されている。人間工学に基づいた工業規格でも寝心地の良さが推奨されている…のかどうかは知らないが、平均的な女性の首と肩の高さに最適であることは保証する。  私がまどろみ始めると彼が額に口づける。唇の強さも口づけの持続時間も緻密に計算され、やがて訪れる穏やかな眠りを妨げることはない。  私仕様に完璧に出来上がった彼もいつかは私の元を旅立っていくだろう。でもそれでいいのだ。彼ほど完璧に作法をマス

          Upbringing

          VEGAN

          カクテルもミルク抜きでいいんだね。 君は何事もまじめすぎるんじゃない? ミルクなんて大したことないじゃない。 ミルクを搾ったところで牛が死ぬわけでもないのに。 いや議論する気はないし ヴィーガンが嫌いなわけじゃない。 むしろ尊敬してるくらいさ。 それに君っていい匂いだ。 違うよ、変な意味じゃないよ。 そりゃあ口説いていいなら話は別だけど。 ねぇ人間が草食獣しか食べないのは何故か知ってる? 肉食獣だって食べようと思えば食べられるけどすごく不味いらしい。 肉は筋だらけで硬

          憂鬱

           学校のプールの開放は昼前に終わってしまう。ジリジリと音がするほど暑い帰り道、ビーチサンダルの足元から変な声がした。私の親指の爪のすき間から生まれたソレは生まれた途端、半透明の体をくねりながら次々に燃えるようなアスファルトに落ちては悲鳴を上げた。ソレは地面に触れた瞬間、耳障りな断末魔と共に蒸発ししまうようだ。公園は暑すぎるからショッピングモールのフードコートへでも行こうかな。五百円玉分のお昼ご飯の調達も必要だ。  長い長い夏休みはまだ始まったばかりだ。

          花唇

          女はその度に一度死ぬのだ…等と言えば貴方は信じるだろうか 貴方に殺された私は貴方の命を注ぎ込まれてまた生まれるのだ …等と言えば貴方はくれるのだろうか この先の永遠に貴方の命の雫の全てをくれるなら この先手に入れられる貴方以外の全てを捧げられる …等と言えば貴方はきっと逃げ出すだろう

          失恋と美容院

           リマインダーが自己主張を始めたので重い腕を上げてスマホの画面を傾けるとポップアップが美容院の予約を点滅させた。先週予約した時にはアイツのスケジュールを気にしていたのにと思うとほっとしたような妙な欠落感に溺れそうになった。  予約した時には予想もしなかった事態に直面して、失恋した直後に髪を切るという行為の気恥ずかしさを初めて認識した私は予約サイトを呼び出した。もちろんキャンセルするためだ。だがキャンセルボタンをタップする直前気が変わった。私は長らく誰かの予定に合わせ続けたせい

          失恋と美容院

          顔を出来るだけ見ないように言葉を繋いでみたが すぐにどんな言葉も浮かんでこなくなってしまった。 私が口をつぐむと沈黙がテーブルを埋めていく。 長い長い沈黙の後でグラスの中の溶けかけた氷が カラン と止まりかけていた時間を進めた。 すると彼がやっと口を開く。 何故? ずっと押し黙っていた彼の声はこの場に相応しく程よく掠れていた。 だから私は彼のどこか安堵したような目を見ないように ごめん と呟いた。 彼への最後のプレゼントは自分は振られたのだという免罪符だ。

          矜持

          口を固く結んだまま顎を上げて 反抗的な眼差しを真っ直ぐ前に向けている ドロドロに汚れたスカートの裾を掴んだ拳骨の関節には 痛そうに血が滲んでいた 彼女の今にも崩れそうななけなしの矜持を守ってやるため 片方しかない靴の代わりに背中を差し出した 躊躇う彼女を促すように背中を揺らすと おずおずと肩に小さな手がかかる 背中の重みは同じ鼓動を分け合っていた頃の何倍になったのだろう 言葉を持たず帰路を辿ると長い影が跡を残した

          辻褄合わせ

          おかあちゃん と甘え声で私を呼ぶと上目遣いにニッと笑った その握られた手が余りにも小さかったので こんなに小さな手だったかな…と記憶を辿るが 私は母と手を繋いで歩いた事などなかったのだと気づく 三つの年に実母を亡くした母は曽祖母に育てられたそうだから 母にもそうした記憶はないはないはずだ だからきっと母は今幼い頃に夢見た世界にいるのだろう 子供に戻った母がその頃叶えられなかった望みを果たせたのなら 最後の最後に辻褄があったのかもしれない

          辻褄合わせ

          祖父のノート

           私が小学生の時に亡くなった祖父は、野球が好きで巨人が好きでその中でも特にO(王)N(長嶋)が大好きだった。巨人が負けるととても機嫌が悪くなるので祖母が困っていた。私が覚えているのは、若いころに罹った病が悪化したため殆どずっとベッドの上で過ごし、選手を叱りながら野球観戦している姿だった。祖父が亡くなった時にはまだ人の死というものがよくわからず葬儀が終わって誰もいなくなったベッドの上を見て不思議な気がしたものだ。 “病院に行って留守なのではなくもうずっと帰って来ないのだ”

          祖父のノート

          夜半深々 Ⅱ

          あ、泣いてる  深く眠っているようでも娘が泣き出すと必ず目が覚める。 そういうものだとは母も言っていたし、雑誌にも書いてあった。 手元の時計を見るとミルクが終わってまだ一時間しか経っていない。 オムツかな…でも泣き声が大きい。  なんだろう…  どこか痛いのだろうか…  それにあんなに泣いたらまた… もう随分とちゃんと寝てない気がするが 体も頭も全部は覚めないまま焦燥感から慌てて飛び起きた。 だって早く泣き止ませないとまた電話がかかって来る。 最近では外出先で電話がなっても

          夜半深々 Ⅱ