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ペトリコール

 いつの間にか雨が降っていたようで駐車場のアスファルトが黒く濡れていた。雨上がりの独特の匂いが鼻孔に懐かしい。これはゲオスミンという物質が空気中に放出される時に出る匂いだ。確かペトリコールという名前もついていた。この名前を教えてくれた姉さんとはもう何年も連絡をとっていない。両親が離婚した後暫くして一度会いに来たのは自分が小学校の頃の事だからもう二十年近く会っていないことになる。姉さんは父親の葬式にも来なかった。だからきっと母さんも連絡先は知らないだろう。その母とも五年以上顔を合わせていない自分はきっと肉親の縁が薄い。そういう性なのだ。
 ドアの水滴で濡れた手をズボンで拭くとなんとなく自分の育ちの悪さが嫌になった。だからどうしたというような些細な事で出自についての劣等感を感じるのも家族の縁が薄い事と無関係ではない。普通なら親が教えてくれるような事を知らなかった。知らない事にすら気づかず、かかなくていい恥をfよくかいた。そんな時は寂しさがつのった。その寂しさは信用のある仕事も生きていくのに充分な収入も癒やしてはくれない。
 身に纏わり付いた育ちという縛りは努力したところで何も変わりはしない。捨てることもできず、加えることもできない。どういった類のものであれそれはきっと誰にもあるものだ。
 カーナビで住所を検索していると教頭からの着信があった。
「先生まだ駐車場?」
「はい」
「向こうで児童相談所で合流することになるけどあまり…」
「聞かれたことしか答えません」
「そう、わかってるならいいんだよ。
あの子は扇情的なところがあったから足元掬われないようにしないとね。
難しい時代になったよ。
後で責任問題にならないようにね。
君みたいな優秀な先生がいなくなるとね、僕も困っちゃうんだ。」
曖昧な「はあ」という返事が誰かの教頭を呼ぶ声と重なって教頭が電話口を離れて電話を切るタイミングを失った。今時、誰もなりたがらない管理職になった教頭は両親も祖父母も教師で皆校長で“上がり”を迎えたそうだ。自分も教頭のように自治体や警察に籍を置く親戚も多いそんな家に生まれていたらこんな時、電話を切っていいのかどうかわかるのだろうか?

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