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思春期だった二年前のこと

 今から二年前、中学二年生の夏頃、思い返すと絶賛思春期で、恵まれた環境にいたにも関わらず、なぜか底なし沼にはまって苦しんでいたなあと思う。その沼から抜け出せたのは、環境的要因というよりは、自分の考え方がだんだんと変わっていって、自ら身を置く環境を選べるようになったり、他者からどう見られたいか考えられるようになったり、という、自分の成長が要因だろう。時間が解決してくれる、というやつだ。まだその頃の気持ちが新鮮なうちに…と思って詩を書いた。

https://note.com/lee_favorite_/n/naa4850cbdaa6

 今の日本を生きる少年少女たちは、自分で大人にならなければいけない。もちろん成人式はあるし、義務教育というものもあるけど、内面的に大人になるための儀式や修行はなくて、自分で大人にならなくてはいけない、というのを強く感じる。スマートフォンの普及によって、メディアから大量の情報が得られる中、あこがれの対象となる大人は無数に誕生していく。あこがれと、まだ子どもでいたいという気持ちの狭間で彷徨う。


 思春期、世界の存在は不安定だ。将来がすごく遠く感じられたりすごく近く感じられたり、時間の感覚が伸び縮みする。将来の夢がなかった私はひどく焦燥感にかられて、勉強という将来に直結するように感じられる行為をするのがつらかった。今だったら大学は言ったほうがいいし勉強して損ないからしとけよ、と鼻で笑えるけど、そんな時期があった。それなりに友達もいたけれど、心から笑うことができなくて、遊びに行っても疲れちゃったな、という気持ちになることをひどく深刻に考えていた。悩めば悩むほど深く沼に引き込まれていった。(今は笑いすぎて息できなくなるくらいの友達がたくさんいるのにね、思春期を通り過ぎて自分の心を開くようになったら離れるのがつらくなるほど部活の先輩とも仲良くなれたのにね)

 言葉を見つけて自分の今の気持ちを端的に表せるようになると、自分を客観視できるし、それを発信すれば共感を得ることもできるから、主観的孤独から解放される。けれど、今まで苦しんでいた沼は少年少女誰もが抱えているものであり、ありきたりで平凡なものであったことにがっかりする。思春期という沼を抜け出した解放感と喪失感。そんなものを表せたらなあ、と思って書いた詩だった。

 あくまでこの話は心理学的知識もないただの高校一年生が勝手に考えてる話なので真に受けてほしくないのですが(笑)思春期のりえてやったぜ!という感覚はなくて、誰かが救い出してくれた、とか言う感覚もなくて、気が付けば楽になってたな、みたいな感覚ですね。だから、そういう人もいるから、思春期つらくても、案外時間が解決してくれるかも、この詩みたいなことをしなくても。という話でした!それではまた!


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