『男が痴漢になる理由』を笑えなかった話

ずっと気になっていた本、『男が痴漢になる理由』(斎藤章佳/イースト・プレス)を読んで、途中から予想とは違った意味で背筋がすうっと寒くなった。
あえて被害者側の描写ではなく、加害者側である「痴漢」の姿が冷静に切り取られ、研究が提示されている中で、彼らの特徴が全く他人事には思えなかったからだ。

そもそも、この本が気になっていたのは、自分も何度か痴漢に遭ったことがあるからだ。
高校初日、友達と待ち合わせて電車に乗ったら、二人まとめて触られた。わたしが少しずれると手が届きづらくなったのか、痴漢は友達の方だけに集中した。わたしたちは一言も発さずに目を合わせて小さく頷きながら、(大丈夫?)と確認しあい、次の駅で車両を変えた。最悪な入学の日になった。

それだけじゃない。高校の間は満員電車だったので、何度か被害に遭った。そのとき心底不思議だったのだ。
クラスの男子に痴漢はいないのに、なぜかつて男子高校生だった人も「おじさん」になると痴漢をするんだろう? って。
しかも、捕まるリスクに対してある意味「触る」だけ(被害者側からすると「だけ」ではないけど)って、ハイリスクローリターンに思えて心情がさっぱり理解できなかった。バレれば友達もなくすだろうし、後ろ指を指されて生きていくことになる。

それからいつも、なんで痴漢なんてするの? 風俗じゃダメなの? いつからなるの? と、全く想像がつかないからこそ疑問に思ってきた。それを教えてくれる本がやっと登場したのである。

読み始めてすぐに、痴漢に持っていたイメージは覆されることとなった。

私がこれまで彼らの多くと関わってきたなかで受ける印象は、「性犯罪者のほとんどは、どこにでもいるごく普通の男性である」というものです。(p.32)
性がからむ犯罪はどうしても「女性と縁がない人による犯罪」「性欲を抑えきれずに犯行に及んだ」と見られがちです。既婚者が半数近くを占めるこの図は、それが偏見でしかないことを示しています。(p.39)
私たちが受講者からヒアリングしているなかでは、中高生という早い時期から行為をはじめる者も相当数いるという実感を得ています。(p.60)

「しょうもないおじさん」と想像していた痴漢像はどれも「イメージ」でしかなかったことがわかる。本文ではもっと細かに、データも用いて、彼らがどんな生活を送り、なぜ痴漢を始め、どのくらい繰り返していくのか、どんな言い訳をするのかが描かれている。
ストーリーになっていたりせず、怒りの感情で煽る文でもない、突き放した「研究」「第三者」の文だからこそ、知りたかったことが知れた実感があった。

さらに読み進めると、この本は「痴漢」がアルコールや薬物と並ぶ依存症の一つであることを教えてくれる。必ずしも性的な欲求を満たすためではなく、「逮捕されずにノルマをクリアする」などの攻略性にゲーム的にハマっていっているのだという。
ゲームなら薬物やアルコールと違って体への摂取はないし、本気になれば「ダメだ、やめよう!」とできそうな気がするのに、それができずにもがく彼らの治療の流れまで見ることができる。

こうして見ていくと、「被害者もいるのにやめられないなんて最低」と思うだろうか。でも、わたしは読めば読むほど、そうは思えなくなっていった。
ずっと脳裏にちらついていたのは、舞台のチケットを買う瞬間の高揚感。お金がないとわかっていても、「このくらいならなんとかなる」と思ってしまって毎月金欠になる、のに、その瞬間は画面の購入ボタンしか見えなくなっている。やめるなんて選択肢はない。
アルコールにも薬物にも痴漢にも依存していないけれど、読みながら、痴漢をやめられない描写そのものを体感として知っていると思った。

本文中にも、こんな痛いフレーズが出てくる。

依存症でなくとも、身近なところにもその例があります。例えばダイエットをしようと決めたのに、目の前においしそうなケーキがある。「これが最後の甘いもの、ダイエットは明日から!」--ほんとうにそれを最後にしようと思っているかどうかはさておき、「今目の前にあるケーキを食べるため」に都合よく作り出した呪文が「これが最後」という認知の歪みなのです。「だから食べていい」「痴漢していい」と自分に許可を与えているといってもいいでしょう。(p.231)

読みながら自分で思い出していたのはチケット購入の瞬間だったけれど、この例も、悲しいほどよく知っている。買い物依存症というほど頻繁に買い物をするわけじゃないけれど、特定の「目がない」何かは全く我慢できなかったりする。

それが痴漢にとっては「目の前にいる女性」だというだけなのだということがわかる。だからと言って許せという意味じゃない。けど、その治療がどれだけ難しいかということは、想像に難くないと思ってしまった。

そのほかの依存症と違うのは、性犯罪には被害者がいるという点だ。それは、それだけで「許してはならないこと」になることを意味する。わたしも、ケーキや買い物の例で共感できてしまっても、許そうなんて思わないし、痴漢が0になったらいいなと本当に思う。

そのための治療の中で、本書の中では、「コーピングの選択肢を増やす」という言い方で、趣味を増やすなどの手段で、ストレスのはけ口を複数用意したり、努力して向上できる場所を確保したりするのが面白かった。
それはある意味、「ケーキ」かもしれないから。結局人は、誰かに迷惑をかけないように、小さな依存をたくさん持っているものなのかもしれない。

まさか痴漢の実態の本を読んで、肝が冷えることになるとは思わなかった。
わたしの依存先はたまたま「セーフ」なだけで、それもいつ加害者になるか分からないし、お金という意味で間接的に家族を傷つけることもあるかもしれないし、誰かの負担になるかもしれない。その時「痴漢」同様に、自分の都合のいいように捻じ曲げてしまわないように、自分の状態をたまにチェックすることが必要なのかな、と思う。

……思うけど。自信は全くない。
わたしは来月も再来月も舞台に行くけど、やりすぎには注意、と肝に銘じたい。

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