わたしの心をつかんだ服たち。
わたしとは何か。 そんな根源的な問いを幾度となく行うようになったのは何歳の時からだろう。 誰かの何かになりたくてもがいていた日々からは遠く離れた午後二時三十九分のファミレス。 あの頃の自分には想像のつかない場所で生きている。 わたしとは何か。 その答えの一つは、かつて読んだある本に書いてあったこんなことだ。 自分というのは選択してきたものの積み重ねである。 ナンバーワンになれなくても、誰かのオンリーワンになれなくても、わたしはわたしを作り上げている。 たくさんの失
風はまだ冷たい。 進路はぜんぜんオールグリーンじゃない。 でもたくさんの春服たちを見ているとウキウキするのは本当。 冬の黒や灰色やカーキを脱ぎ捨て、軽くて柔らかな花たちを纏いたくなるのは当然の摂理。 分厚いタイツも、ムートンブーツも脱いで、素足のままでピクニックをしようか。 たくさんの季節をめぐるけれど、明るくなる季節も一等すきだ。 mameの花柄マキシ丈ワンピース。 15SSのもの。 普段のわたしを知っている人はこういうのを着ないのを知っているから驚くと思う。そしてわたし
薄い皮を剥いていくように冬が去っていく。 今月の上旬はあんなに寒かったのに、今じゃもう灰色のコートは何処かに捨ててしまいたいほどの陽気。 この一ヶ月はほんとうに肌で季節の変化を感じられるから、とても楽しい。 “March comes in like a lion and goes out like a lamb.” 変化のない日々なんてないのだけれど、この三月は殊にわたしの周りもわたし自身も変化を感じる。 ほんとうは変わることは苦手でたまらない。 でもそれを止めることがで
いつからかは忘れたけれど、ずっとワンピースに心惹かれている。 でも幼い頃はワンピースを着せてもらうことはなくて、いつもスカートだったりキュロットだったりズボンであったりを着ていた。 動きやすくて着回しができて悪くなかったけれど、どこかでワンピースに憧れを抱いていた。 それが表れたのは大学生の時、バイト代を持ってラフォーレやルミネを訪れた。 地元とは比べ物にならない服たちの中でワンピースがひときわ輝いて見えた。 そこからわたしのワンピースジプシーが始まった。 あれから何年か
身銭を切って自分を作り上げていく日々。
新年度も間近で、仕事でも私生活でもいろいろと出来事があり、簡単に言うと仕事が忙しくなったり、仕事で憤ったり、家の契約更新をしたり、自炊をちゃんとし始めたり、などなど。 それに便乗して、というかこれを機にというか積年の負の遺産を消し去りたいということで、この春はいろいろ試してみる所存。 そしてnoteのレポートという形でみずからモチベーションを保つ。 ということで今回は体の歪みとかもろもろを正すところから始めようと思い今回は背骨ラボのカイロプラクティック60分を受けてきた。 か
思ったことを好きに言うだけのもの。
久しぶりにこちらでも書いてみる。 人のを見るのはとても楽しいけれど、自分では意識してみないと書く力が衰えていく。 言語化できないことはもちろんあるし、だからといってそこにあぐらをかいてしまうと、なんにも生まれない。 幸服無限というフリーペーパーをご存知であろうか。 ひょんなことから編集長と出会い、毎号読むことができている。 前にもどこかで言っていたけれど、雑誌は無限のように見えるものの中の消費のスピードに流されているように感じる。 その中で幸服無限、及び執筆者の人たちはその
幼いころから大人しい子どもだった、わけではない。よく外で遊んだりする、人見知りで活発な子どもだった。 しかし成長過程に応じて変化していった時にふと感じたのは自分の役割だった。 わたしはクラスのりさちゃんのように中心になれなくて、さおりちゃんみたいにモテるわけでもなくて、まいちゃんみたいにみんなから引く手数多でもなくて、どうやったら必要としてもらえるのだろう、と思った結果一つの役割が浮かんだ。 それが聴くことだった。 人は頭を持ち口を持っている。結果自己を表現するために話すこと