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『沈黙−サイレンス−』は遠藤周作のテーマが描かれていない

遠藤周作の小説『沈黙』を、巨匠マーティン・スコセッシが映画化したのが『沈黙 −サイレンス−』(2016年)である。

映画としての完成度が非常に高い作品だった。リアルで重厚な映像は、さすがスコセッシと唸らされた。

また、映画のストーリーは、原作の『沈黙』にとても忠実だった。スコセッシが原作をとても好んでいるか、もしくはかなり読み込んだものだと感じた。実際、スコセッシは生前の遠藤周作と対談し、『沈黙』の映画化についても話し込んだらしい。

しかし、原作に忠実だからこそ、遠藤周作が『沈黙』で描いた重要なテーマが描かれていない点が気になった。正確に言うと、描いている。しかし、描き方が弱い。

この描き方では、多くの観客が、作品が持つ意味を理解しない、もしくは誤解してしまうのではないか、という懸念を持った。

原作といいながら、設定だけ借りて他はほとんど脚色したような作品ならよい。しかし、スコセッシの『沈黙 −サイレンス−』は、原作に極めて忠実であり、だからこそ、テーマの描き方が中途半端なため、上述したような懸念をもったのだ。

タイトル「沈黙」の意味

『沈黙 −サイレンス−』を理解する上で、まず、タイトルの「沈黙」という言葉をどう解釈するかがポイントになる。

作品を観た人はどのような解釈をしているのだろうと、Filmarksのレビューを見てみた。

やはりではあったが、「沈黙」を「神の沈黙」と捉えている人が多い。

原作においてもだし、映画においてもそうだが、この作品は「神の沈黙」を描いていない。神は「沈黙していない」ことを描いているのである。

ここを間違うと、そもそもこの映画、さらに原作が持つ意味を理解するのが困難になる。

もともと原作タイトルは、『沈黙』というタイトルではなかった。しかし、編集者の意向で『沈黙』に変更する提案がなされた。遠藤周作は、「沈黙」の意味が誤解されることを恐れ嫌がったものの、渋々、タイトル変更に同意したという経緯がある。

「沈黙」が意味することは「神の沈黙」ではなく「神は沈黙していない」ということであり、また、「キリストも沈黙していない」。それがテーマであり、遠藤周作のメッセージである。

これがどういう意味を持つのかということは、ヨーロッパにおけるキリスト教と日本の精神風土を理解する必要がある。

ヨーロッパにおけるキリスト教

キリスト教の神、つまりゴッドは、ユダヤ教のヤハウェ、イスラム教のアッラーと同じ神である。

現在に至るまで、ユダヤ教とキリスト教、ユダヤ教とイスラム教、そしてキリスト教とイスラム教は、長いこと戦争を続けてきたが、それらは全て、宗教上の兄弟ゲンカをしていることになる。

なぜそんな兄弟ゲンカをしているのかというと、根本的には「神」に問題がある。

この神が、実にワガママなのである。さらに、自己中男である。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教すべてが共通した聖典としているのが、旧約聖書である。

これは、神と人間の契約を記した書物であり、おそらく、人類の歴史上、最大のベストセラーである。

この神と人間の契約には、ワガママな神が、俺だけを信じろ俺の言うことを聞けと、事細かに人間が行う決まり事が書かれている。モーセで有名な十戒もそうだし、包茎はダメ、不倫はダメ、オナニーも禁止している(オナニーの語源は旧約聖書において、オナンという人物がマスターベーションを行い、神に怒られたことが語源である)。

そこに、キリストという神の子が現れ、旧約聖書よりもユルい決まり事を残した。それらを書き残したのが新約聖書であり、キリスト教の聖典である。

キリスト教は、カトリックやプロテスタントなど宗派の違いはあるが、洗礼を受け、日曜に教会へ行き、聖書を読んで神を信じればいい。旧約聖書に比べて随分と決まり事がユルい。

そのため、爆発的にヨーロッパ世界に普及した。

イスラム教は、キリストに遅れること約600年後、神の啓示を受けた預言者ムハンマドが中東に現れ、旧約聖書以上に厳しい決まり事が書き記された。それがコーランであり、イスラム教の聖典である。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の戦争とは、この決まり事の違いに端を発しており、即ち、元を辿るとワガママな神に問題がある。

いずれにしても、神を信仰する一神教、ユダヤ教にしてもキリスト教にしてもイスラム教にしても、これら宗教は、神と契約した決まり事を聖典とする宗教なのである。

アメリカやヨーロッパが契約社会と言われるのは、彼らが神との契約による宗教をバックグランドとする精神風土だからといえる。

日本人にとってのキリスト教

キリスト教は、旧約聖書よりユルい決まり事で爆発的に広がった。さらに信者を増やそうと、17世紀、日本に宣教師を送ってきた。これが、『沈黙 −サイレンス−』で描かれている世界である。

映画内で(原作内でも)、既に棄教した元神父が、日本でキリスト教は根付かないと断言するシーンがある。

ここは、この作品を理解する上で、重要なポイントになる。

観客にとっては、日本でキリスト教が根付かないのは、厳しいキリシタン弾圧のせいと感じられる。それまで長崎奉行の厳しい、時に残酷な弾圧を見せられてきたのだから当然そう思う。

しかし、元神父はこう言う。

「日本人は、キリスト教の神という概念を理解できない。」

これは、遠藤周作が、生涯に渡って追い求めきたテーマでもある。日本人にとっての神は何なのか。そして、日本人にとってのキリストとは何なのか。

そもそも遠藤周作がこのテーマに向き合うようになったのは、彼自身が、親から授けられたカトリック信者ということに馴染めなかったからである。遠藤周作の言葉でいう「キリスト教というブカブカの洋服を、どう和服に仕立てるか」。それが、遠藤周作の生涯のテーマとなった。

日本人の精神風土

日本人にとってのキリスト教を考える上で、日本人の精神風土を理解する必要がある。

日本人が持つ特徴的な精神風土、それは、「空気」である。

「空気が読める」「空気が読めない」というアレである。

日本人は、この得体のしれない「空気」というものに、昔も今も、そして恐らくこれからも支配されている。

日本がまだ農村社会だった頃、村には、それを破ると村八分にされた「掟」や「しきたり」があった。それは、契約や法律のように明文化されていない決まり事、つまり「空気」である。

第二次大戦で、勝てる見込みのない戦争に突き進み、特攻を仕掛けていったのも、世の中の「空気」がそうしたからといえる。

現代においても、官僚と政治家の間で「空気」を読んだ上での忖度が行われる。新型コロナウィルスで初めて緊急事態宣言がなされた際、外出してはいけないという「空気」により、罰則がなくても皆外出を控える。

日本人が持つ明文化されていない決まり事「空気」。曖昧なこの「空気」を、日本人は機敏に感じ取る特殊能力があり、そしてまた、精神的支配を受けている。日本人におけるキリスト教を考えた時、この「空気」というのが重要な存在である。

ヨーロッパにおけるキリスト教は、神と人間の契約だと書いた。契約とは明文化された決まり事である。

日本人が長年に渡って精神的支配を受けている明文化されていない決まり事「空気」を、明文化された決まり事「聖書」に置き換えようとしたのが、キリスト教の布教活動である。

17世紀の農村であれば特に、日本人が守らなければならないのは村の掟やしきたり、つまり「空気」だった。しかし、宣教師は言う。守らなけらばならないのは神との契約です、と。

現代にまで根強く日本人を精神的に支配する「空気」である。宣教師の言葉だけでそう安々と、置き換えられるものではない。

現代で例えるなら、これまでずっと終身雇用、年功序列の企業で働いてきたのに、ある日突然、外国人が上司となり「成果主義」を宣言される。年齢も経験も関係ない。成果を出さなければ減給、もしくは解雇を告げられる。入社以来親しんできた年功序列を、突然今日から成果主義に置き換えろと言われても、すぐに出来るものではない。

先に書いた、元神父がいう、日本人は神を理解できない、という言葉の本質はここにある。

日本人を精神的に支配する「空気」を、聖書に置き変えることはできなかったのである。

遠藤周作の答え

このように、「空気」に支配される日本人にとって、キリスト教はどうあるべきか。

遠藤周作が出した答えは、キリストは日本人の「空気」の中に存在するということだった。遠藤周作批評でよく言及される「同伴者イエス」というやつである。

契約者としてのキリストではない。いつも側にいてくれるキリストである。「空気」のように。

キリストを信じれば、キリストはいつもあなたの側にいる。神もキリストも「沈黙」していない。いつもあなたの声を聞いてくれる。そして、あなたを許してくれる。

だから、キリストを信じなさい。神を信じなさい。ということである。

このような明文化されていない曖昧な概念を、ヨーロッパの人が理解するのは困難だと思う。ほとんど不可能に近いのではないかと感じる。

それを、スコセッシはどう描くのか。

期待と不安の中で観たが、スコセッシでもやはり、その「空気」としてのキリストをしっかりと描くことはできていなかった。

スコセッシが描いたキリストは、踏絵をして棄教する弱い者を許してくれる優しいキリストであった。それはそれで、『沈黙』が描いたセンセーショナルな点である。カトリック教会にとって、神父が棄教することなど許されるはずがない。教会は許さない。しかし、キリストは許すのである。

しかしそれが、スコセッシが描ける限界だったのだなと感じた。日本人が持つ曖昧だけれど強固な「空気」。その「空気」の中に存在するキリスト。それらを描くのは巨匠スコセッシでもやはり、困難だったようだ。

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