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とんでもない作家がいない

昨日『BSフジLIVE プライムニュース』で、石原慎太郎氏の追悼特集として、過去の出演映像を振り返っていた。

その中で、とても印象的な言葉があった。

自身が芥川賞の選考委員をやっていた時の経験をもとに、近頃の若い人の作品を読んで感じることは、

「とんでもないのがいない」

という発言だった。

その前後の話として、若者は情報を知りすぎており、何が流行しているかとか、何を書けば世の中に受けるとか、何を言ってはいけないとかを調べていて、マーケティングになっている、自分で勝手に自主規制をしている、若い人の作品を読んでいても、とんでもないのがいない、ということだった。

この発言には、強く共感を覚えた。

以前、マーベル作品はマーケティング的だと書いた。そして、作家性より観客に媚びることが優先されている、と。

マーベル映画に限らず、マーケティング的と感じる映画は多い。それは、映画に限らず小説にしてもそう、音楽にしてもそうだ。

それは、作り手の問題というだけなく、自身の問題でもあると感じている。

映画は観れば観るほどつまらなくなる。小説にしても、読めば読むほどつまらなくなる。

年齢を重ねる度、知識、経験が積み重なっていく。それら、余計とも言える情報によって、少年の頃に感じた、純粋無垢な興奮や喜びを感じることが妨げられる。あの頃に感じた感動は、もう経験できないのだろうなと諦めている。

観れば観るほどつまらなくなり、読めば読むほどつまらなくなる。そのジレンマを強く感じながら、それでも映画や小説という創作世界に触れようとするのはなぜなのか。それは、いつかどこかで、とんでもない作品に出会えるはずだ、ということを期待しているのだと思う。

普段、マーケティングの世界に触れていて感じるのは、マーケティングでは優等生以上の物は生まれないということである。そもそもマーケティング理論や手法は、過去の企業の事例を研究対象として、そこから仮説を立て、統計的有意を見出し、そして理論化されたものである。

過去の事例をもとにしているので、過去の事例以上にはならない。

実務においては、そのマーケティング理論や手法を如何に上手に使いこなすかが要求される。上手く使いこなさせれば優等生になることはできる、しかし、優等生以上にはならない。

とんでもない奴として文壇に現れ、政治の世界でとんでもない発言を繰り返してきた石原慎太郎氏は、こうも言っていた。

「上手くなろうとすると、工夫をする。工夫すると感性が磨かれる。人間の価値は個性です。人と違うところです。その違いは感性です。」

感性は、マーケティングでは磨かれない。

そして、マーケティングで、とんでもないものは生まれない。

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