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落合陽一×宇野常寛『マタギドライブ』対談を聞いて。

先ほど、落合陽一×宇野常寛『マタギドライブ』を聞き終わりました。
youtubeの切り抜きだけでは物足りず、すぐにNewsPickの月額課金に振り切って本編をフルで視聴しました。そして公開日が2022年12月という事実が判明し、お二人がどれだけ先見の明を持たれているのか愕然となった次第です。


現実的にデジタルネイチャー化が避けられない時代において、その事実を受け入れて楽しむほうがいいんじゃない?と主張する落合さんと、AIへ従属化しつつある中でも人類のイマジネーションで抗える方法を模索する宇野さんの意見が入り交じる、大変興味深い対談でした。

まずデジタルネイチャーを私なりの解釈で説明すると「計算機上に存在する自然そのもの」
ざっくり言ってしまえば、パソコンやモニター、それからスマホも、もはや「自然」の一部である、といった考え方です。

例えば、自動配給機で猫に餌を与え、自動洗浄機で水を管理し、自動清掃機でトイレを清潔に保てるとします。すると人間が必要なことはそれぞれに連動した自動計算機にプログラムを指示することだけであり、猫と人間のコミュニケーションは、資本的な関係から脱却し、実質的に対等な関係を築ける。これを「自然」な状態である、と認識する考え方がデジタルネイチャーのひとつです。計算機によるシステムを、森林や海と空といった概念と同列に扱う、といった感じです。

これは動画内容から発展させた例えなのですが、自動配給システムに加えてさらにAIを活用した場合。猫の行動情報をデータベース化、それから最適な栄養素や健康状態、ストレス係数など、人力では到底収集しきれない事柄も、ネットワークにアクセスしてしまえば常にインプット・アウトプットが可能になります。インフラ的な設備さえ整ってしまえば、ご主人のインプットがなくとも、半永久的に猫ちゃんの資本的欲求を満足させられるシステムが創り出せる。

ストレス係数に応じてランダマイズ性を備えたネズミ型おもちゃが走り出しますし、必要に迫られて人間がねこちゃんに構う責任もなくなり、病気のサインを検知すればカレンダーと同期して自動で動物病院への予約を入れることもできる。人間はタイムスケジュールを確認し、それに従って行動を起こす実行者であればよいだけになる。

ちょっと猫好きからすると、無機質に感じてしまいますね。ですがあくまで「事実」として、そういった技術は十分に実現可能な世の中になっている、といった認識を持つ必要がありそうです。

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似たシステムで最も近いものが「CatLog」でしょう。

ありとあらゆるネコちゃんの行動情報を記録し、逐一データを知らせる商品。月額のサブスクライブ制でレンタルできるようです。
ちょっとお高いのと、ネコちゃんが首輪キラーイでないことが前提です。

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この場合、人間と猫は極めて対等な関係となります。
計算機=システムを仲介することにより、真の意味で従属関係から解放される事を意味する。逆にシステム、つまりデジタルネイチャーへの依存度はグッと高まり、手作業や予測不可能なタイムラインの中で人間は自律できなくなりますが、それが自然なテクノロジー発展の流れであり、もはや逆らうことは出来ない、といった事を解説しているのが書籍『デジタルネイチャー』の内容でもあります。

この落合さんの主張に、宇野さんが大体の人間がbot化する未来を憂いていますが、デジタルネイチャーの不可逆性(進化の流れはとまらない)ことに関しては異論の余地なしといった状況でした。

そこで一つ引き合いに出したのが「原初的な民藝文化」の再興です。
もともと人間の生き方をガラッと変えてしまう力をもった「芸術」分野。マジョリティたりえる大規模勢力へのカウンターカルチャーとして「民藝」つまり、職人一人一人が手作りでこしらえ、小規模のコミュニティの生存戦略としての文化が発展してきたことを挙げます。一種の回帰主義です。

デジタルネイチャー世代において、人間の意志は好奇心に基づいた消費者として固定される、つまり創り手を全て計算機側に任せることになる。人間はAIやシステムの作った創作物を選び、それらを享受するスタイルに変わっていくのだといいます。その流れを断ち切るための「マタギ」あらため「民藝」文化。世捨て人的な職人や、あるいは想像力を武器にした作家的な制作活動を「民藝」と位置づけ、人らしさとは何かを改めて再考しようじゃないか、といった主張を宇野さんは話します。「マタギ」とは熊(AI)が生活圏を脅かすのを防ぐための防衛機制的な役割を意味するのかもしれません。

ただ「民藝」活動と名を冠しつつも、最終的にはブランド化してしまうことを宇野さんは危惧していました。
コミューンのような狭義的なコミュニティ、つまり閉じた世界でのみ有効活用できる点が民藝の強みです。そうして需要と供給、強いては「仕事」を生み出すわけですが、ブランド化してしまうと文化が広範囲に及びはするものの、マーケティング・ブランディングに民藝が集約してしまい、その後職人たちの手から民藝が離れていく。それは果たして「民藝」といえるのだろうか、すでに意味合いが変容している概念になっているのではないかと危惧しており、これに関しては落合さんも同意見だそうです。

おそらく、この辺とウェルビーイングでいうところの「人が人としてい生きていくために」といった命題につながっていく気がしますが、もう少し熟考が必要そうです。すみません、この主張については私も深ぼった思考ができていないですね。

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この話の中で「民藝の父」こと柳宗悦(やなぎむねよし)の引用が特に興味深いものでした。

写真は真を写すと云うが,真を創ると云った方がいい.美い写真は,自然を創造する.写真の極意の一つは切り方であるが,場面をどう切れば自然が活きるか,既に此事は自然への見方が左右する事なのであって,器械が支配する事ではない.よき写真師は機械の完き支配者である.優れた器械が便利なのは,支配の自由が一層きくからとも云える.器械がいい程人間の創作の余地がふえる.
(中略)
よき写真師は造り主の一人である.それ等の驚異を行う力は何か.それは単に物があるからではない,器械があるからではない.見方が造る不思議なのである.美への直感が産む驚異なのである.

柳宗悦・美しい写真とは何か・『民藝』十一月号 第八三九号

民藝という観点から、「写真」とは何か私見を述べた一説。
これに大変感銘を受けました。

・写真とはそれ自体が自然である。
・写真の本質は、取り方でも機器の選び方でもなく、写真家(撮る人)が「どういったモノの見方」をしているかを伝えるものある。

これは様々なものに置き換えることが出来るように思うのです。
画家ならば、絵筆とキャンパス、書き手ならば記事と筆記用具。
noteにおいては殆どのユーザーが書き手ですので、今回は書き手として例に挙げます。

何を書くか。どう書くか。直感に訴えかける書き方というのは、見ている世界そのものが、どれだけ「筆記用具」や「デバイス(この場合、紙や電子など)」に左右されることなく、そのまま伝えられるかといった点にある、と解釈しました。

「切り取り方」ではなく「自分の心や直感が物事に対してどう動き、どう琴線に触れたか」まで内包して伝えられるかが、秀でたものと、そうでないものを如実に分けるのである。ここは、私達の書き方にも十分適用できる考え方ではないかなと思いました。

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取り急ぎ、視聴の感想文をこしらえて見ましたが、正直なところ何日もかけて熟考したい内容でありました。

特に考えてみたいのが

・人間はもう創り手でなくてよいのか?
・何かになりたいと思っている人が、夢を捨ててbot化してしまうのではないか。
・「意味」を考えた人にとっては、苦痛な世界になってしまうのではないか。
・宮台真司さんの「演じて、踊る」論が最終的な正しさなのだろうか。

あたりでしょうか。正直、落合さんの次書籍となるだろう「マタギドライブ」が絶賛編集中のようですので、こちらの内容を読んで改めて思考してみたいところです。

一応連載は完結しているので、バックナンバーを漁ることはできます。(各記事の後半部は有料です)

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特に芸術と民藝の対立関係は興味深い内容でした。

猫暮、来週の4/27から始まる「デ・キリコ展」に足を運ぼうと思っているのですが、今回の話を受けて鑑賞の仕方が変わるように思います。
名もなき職人たちが作り上げた無数の「民藝」に対して、一つの「芸術」がすべてを覆してしまうかもしれない。そんな構造をどう受け取るか。

はたして、私が「どちら側」の人間なのか。
そんな自分自身の内面を深掘れるようで、今から楽しみです。



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