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現代文学 ”ド” 初心者がひらいた『鍵』|読書感想文

先日、⇩こちらコニシ木の子さんの記事⇩を読んで、芸術的なまでの「なんのはなしですか?」に思わず一人スタンディングオベーションしていた猫暮です。

2013年に新体操の「シライ」を初めて見たあの時みたいな気分です。本当に素晴らしい記事です。着地です。「シライ」というかもう「コニシ」です。F難度ばりの技です。ぜひ皆さんもご視聴ください。

そんな文章中で触れられていた書籍に、私はどうしようもなく惹きつけられました。

『鍵』|谷崎潤一郎


1️⃣現代文学初心者の私。

猫暮は現代文学に正直言って疎いです。

読書遍歴も、太宰治の『人間失格』『御伽草子』『走れメロス』、それから芥川竜之介の『蜘蛛の糸』『羅生門』『蜜柑』くらいなもので、小中学校の教科書にランクインする程度しか数を知りません。島崎藤村も三島由紀夫も川端康成も、ぱっと浮かぶ限りで著名な文豪の名は挙がりますが、どれも読んだことはありません。

今回の著者である谷崎潤一郎も例にもれず、まったく触れたことがありませんでした。それどころか、名前すらも存じておりません。
どんな人か、どの時代を生き抜いた人なのか、執筆時は何歳であったのか、どんな功績を生み出してきた人なのか、何もかも知りません。

私にとって、ファーストコンタクトであり、はじめましての挨拶が本書籍である『鍵』となりました。「あ、どうもどうも」と名刺代わりに分厚い冊子をバサッと渡されたような気持ちです。

想像してみてほしいんです。
「私はこういうものです」とそれなりの分量がある本を突然渡されて、素直にパラパラと読み始める人がどれほどいるでしょうか。
とりあえずと表紙と裏側だけクルっと確認してテーブルの隅っこに恭しく配置するか、適当にパラパラとめくって「すごいですね、後で読んでおきます」とこれまたテーブル隅のデッドスペース埋没に利用されるのが関の山ではないでしょうか。
私も、同じシチュエーションなら同様の対応をするでしょう。
そう思って、『鍵』をなんの気無しにめくってみました。とりあえず目次くらいは確認してから、さぁ、他の積読やnote記事でも読みに行くとするか。

パラパラ。

気づいたら、読み終えていました。

開いたその瞬間からがっちりと文章に取り込まれ、それまで私の頭の中にあったはずの全ての優先事項が排され、ただただ終わりまで突き進む葦になっていました。

いえ、正確には、まずパラララと全体を俯瞰してみたんです。
すると「カタカナ文字」と「かな文字」が互い違いに訪れるような不思議な文体が目に映ります。「カタカナ」と「漢字」だけで執筆された文体は、ハッキリいって読みづらい。読む者の気持ちを辟易とさせるのです。

しかし、私はどうにもこの本の「秘密」をどうしようもなく知りたくなりました。「カタカナ文字」に対する私の生理的嫌悪感になんとか鍵をかけ、文章を紐解くことに執心しました。

本作は、夫婦が「互いの日記を盗み読む」ことで円満な性生活を深めていくという、なんとも背徳的な作品です。さらに積極的な「寝取られ」要素すらもありかなり読者を選ぶ内容です。noteに書いて大丈夫かな…。

ある初老の学者(大学教授)が、嫉妬によって性的に興奮して妻の郁子に性的に奉仕するための精力を得ることを目的として、自らが娘の敏子との縁談を持ちかけた教員の木村と妻を、一線を越えない限界まで接近させようと企み、酔い潰れて浴室で全裸で倒れた郁子を木村に運ばせたり、酔い潰れて昏睡する郁子の裸体を撮影し、その現像を木村に頼むなどの経緯を日記に書いていく。また同時に郁子も日記を書いていた。

鍵|wikipedia

夫と妻が残す日記、この日記がそもそも読まれる前提で綴られている。この時点ですでに物語が深みを増しています。つまり随筆でありながら「伝える」ために書いている。noteを利用している書き手であれば、「書き方」について考えたことは一度や二度ではないでしょう。読者がいる前提で書く記事は、自然と洗礼されていくものです。
そして入れ子構造ともいいますか、夫も妻も、書いたものがそのまま『鍵』の文章として、混じり気無く公開されるのです。リアリティの表現において、これの以上優れた手法があるのでしょうか。今の私にはまったくもって思いつきません。

2️⃣『秘密』と『鍵』で組み立てられた物語

いうなれば「夫」と「妻」のエッセイが、そのまま小説なのです。
そしてこの「小説」というレイヤーを通して「夫と妻のエッセイ」を見ている私達もまた、彼らのやり取りを第四の壁の向こうから「覗き見て」いる。
まるで谷崎が、夫婦の寝室のふすまに一点だけプスリと穴をあけて「どうぞご自由に」と私達を誘い込んでいるような、そんなイメージが浮かびます。

しかし、あくまで「夫」と「妻」のエッセイは、秘匿された日記という体裁を取っている。「見てはいけませんよ」と私達の脳裏に刻まれた倫理がいい塩梅の『鍵』となって、私たちの行動を抑制する。しかし谷崎はなんでもないように、私たちの手に鍵を握らせて、躊躇なく鍵穴に差し込ませる。そうしてめくるめく官能と背徳の世界にいとも容易く導いてしまう。
それほどの「読ませる力」があったのです。

しかし、この「秘密」の奥にアクセスするにあたって、谷崎はいくつも「鍵のかかった扉」を用意しているのです。

まず冒頭で読者に襲いかかるのは「カタカナ」文字による選別です。まるで「読まないことが正当化」できてしまうように立ちはだかるその壁は、「秘密を暴くことが容易でないこと」を読者に理解させる役割を担っている気がしたのです。

正直な話、2~3ページ読んで心が折れる方は相当に多いと思います。本作品は青空文庫にて無料配信されています。
誰でも読むことができるのですが、ちょっとこちらにアクセスしてみてください。ちらっとでいいです。ワンクリックして、すぐにお戻りいただければ。もちろん、そのまま読み進めてもらえたら、さらに嬉しいですが。

ごめんなさい。敢えて読みにくい形式をリンクさせてもらいました(※後ほど、縦読みの読みやすいリンクを貼らせて頂きます。)

さて、文面の圧は感じてもらえたでしょうか。ついでに、横っちょのスクロールバーもちょちょっと動かしてみてください。どうでしょうか。こんなにもつまみ手がちょこんと縮こまっていて、どこまでもスライドさせていけるようではありませんか?
はい、そうです。長い。長いのです。『鍵』は長編小説として分類されています。約10万文字です。

これら全てを『秘密を暴く』代償として読み手は受け取らなくてはなりません。
ですが、どうでしょうか。しばらくは自分の「読みたくない、読みづらい」という反発心に『鍵』をかけてでも「秘密」を解き明かしていくと、もうスッカリ気にならなくなるのです。
するりするりと現れる「夫と妻の扉」をくぐるたびに、新しい『鍵』が手渡され、”キー”ホルダーがジャラジャラと満たされいき、もはや倫理観や道徳観に対する『鍵』すら解錠され、読み手の中に残るのはただただ奔放とした気持ちだけなのです。

3️⃣背徳と本質

ころがろう書店様キャプションより|『鍵』初版本。

背徳、というのは、自身の「徳」に「背く」行いです。
文字のそれ自体を個別で見てみれば、そこにポジティブな意味はまったくありません。
しかし、どうでしょうか。「背徳」にはどこかワクワクとしたニュアンスが内包されています。秘密を暴くことに対して、私達はワクワクせずにはいられないようになっています。

『鍵』を手にした人間は、背徳感を感ずるのです。「夫」と「妻」のリアルで背徳的な気持ちを盗み見ながら、また読者自身も「背徳的な行い」に「背徳的に浸れる」ことができる。
この構造は、人の本質がどこにあるか、まざまざと見せつけられているような感覚に陥ります。
谷崎はそんな入れ子構造に風穴をあけ、何層もの厳重な鍵がかかる扉の奥に眠っている本質へダイレクトに切り込んでいる。そんな印象を受けるのです。

よく「この表現において、彼の右にでるものはいない」みたいな書評やらレビューやらを見かけることが多い。私もそんな読書家的な感想を書きたいな、と思っているが、残念ながら私の脳内ライブラリに比較できるほどの蔵書量はない。

なので、そんな拙い私の思ったことをそのまま述べる。
谷崎のアプローチはどうしようもなくリアリティに溢れていて、ある意味で「無意識」は「無意識」のままでいい。といった信念を感じる。つまり情欲や官能、それから鍵を持って秘密を開けることへの背徳も、人間として当然もつべき感情だから、それでよい。むしろ、それを包み隠したりコントロールすることなく、心のままに踊り狂うが人生ではないか、と説いているような節すら見られる気がする。美しいものは、美しいといえば良い。そんな声が聞こえてくるようだった。

一方で私の数少ない純文学偏歴である太宰や芥川は、どこまでも自分の内面にメスを入れ続け、そうしてたどりついたコントロール不可能な情動性に半ば失望していたのではないか、と思う。底にあるのは「諦観」の念。そして、それを外へ発信していくことを辞めなかった。

谷崎と辿り着いた結論が、まったくもって逆な気がした。手綱を握って躾けるべきか、それとも手放して自由にさせてやるべきか。だからこそ同じ文芸の道を志しながらも、水と油のように反発したのも頷ける話だった。

「夫」と「妻」の秘密は、両者だけの関係のみならず回りも巻き込んでいく。
その「娘」と「若い男性」はこの物語においてキーマンになる。
夫は若い男性をあえて妻にあてがい、それを刺激剤として扱う。男性に『鍵』を握らせて、あえて扉を開けさせる。そうして「秘密の深度」をより高めるたびに、夫はどうしようもなく興奮する。心と情欲のリミッターをそうして解錠させていくのだ。
誰かに『鍵』を渡すということは、つまりは共犯者を増やすこと。なぜなら本来の『鍵』の所有者はいつでも、その扉の先を見ることができるから。

だが、あえてその『鍵』を手放したほうがかえって背徳に繋がる瞬間もある。

物語の後半、「妻」と「若い男性」の共謀により「夫」が知る由もない秘密が意図的に生み出される。実際に空白の時間として「若い男性」と「妻」がふたりっきりにさせられるシーンがあるのだが、その時間に何が行われたか「夫」は知れないのだ。
その時間が「妻の日記」に描かれることもないし、誰も何も語らない。鍵が渡されることがない。だが、もし夫がその空白の時間に当事者の元へ駆けつけたりすれば、密約の内容はたちまち暴かれる。

しかし、それをしない。
夫は「知らないほうがより欲情できる」から敢えて『鍵』を開けに行ったりはしない。その一方で、自身の性欲についてはまた一つ新境地へ至る『鍵』を見つけていることになる。鍵のかかった扉は、無数にある。

4️⃣わたしたちに『鍵』が渡された

英文版『鍵』

最終盤、この物語は急展開を迎える。ある地点を境に突然この物語はミステリーになるのだ。私はその豹変を感じて鳥肌があった。
さらに文章からあるものがさっぱりと消える。しかし、消えたことにホッとしてしまったのが、まるで登場人物の心情とピタリと重なるようでドキリとした。望んでいたことが実現してしまったような、そんな気分だった。

しかし、そうして登場人物にシンクロしたまま物語を進めると、確かに読みやすくなった。読みやすくなってしまった。これが何よりも恐ろしいと感じる。

日本語はその特性上、心情描写においては右にでる言語は他にないとされている。和歌から始まった文化は、イマジネーションが何よりも重視された。事実は、二の次なのだ。
そんな歴史的背景を歩み今日に至った日本語は、時に事実すら捻じ曲げてしまう圧倒的な力を秘めている。綴るだけ、話すだけで、心が動かされる。それが「真実」であろうが、なかろうが。

「真実」は、もしかすると読み手が居なくなったその時にこそ、暴露されるものなのかもしれない。しかし、真実にアクセスできうる『鍵』は、本来誰にも渡されることがないのだろう。
秘密に潜む真実は、単なる日記として綴られ、そうして二度と取り出されない倉庫の奥底にしまわれて日の目を見ない。

だが、谷崎は、誰に頼まれるでもなくひょいと日記を拾い上げて、埃を払いなんでもないように書店にならべて、私達に『鍵』と称して渡してしまった。

さて、この『鍵』をどう使うかは君次第だと、谷崎が笑っているような気がした。

一応、本作はすでに著作権が切れているのでネタバレも何もないのだが、ぜひとも私と同じように「秘密」を暴いていってほしいと思っているので、極端なネタバレは伏せた。


私がこの読書感想文で与えるのは「キッカケ」という名の『鍵』だ。




⇩『鍵』 青空 in browser⇩

※こちらは非常に読みやすい縦書きビュワーです。ぜひぜひ読んでみてね!


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