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誠実を考える。

突然ですが「この文章を書き始める」ということが、そもそも誠実ではありません。

「私は誠実について誠実に考えたんだよ!」って世界の中心で愛ならぬ誠実を叫ぶようなものなのです。

いうなれば煩悩の一種をひけらかす行為。大仏様の螺髪を切り取って渋谷のスクランブル交差点の真ん中で掲げるような真似なのかも?


最近、血の通った言葉を話せているか、聞けているかどうか自問自答する機会があった。

私はよく、都合の良い言葉を選び、相手を不安にさせない言葉を選び、それで相手を慮った気持ちに浸っていることが多い。
相手がそれで安心できるなら構わないと思っていた。「そっちの水は甘いぞ~」と苦水判定された被告ホタル側の視点から対象者を別の川に誘導してやることもやぶさかではなかったし、離脱されてしまうことも仕方ないか、それもまたリベラル、なんて無理やり自分を納得させていた節もある。

しかし、どうにも私自身には不安が募る。
不安にさせないことで不安が募るのだ。
社会に順応していくことで自分の存在意義が切り崩される感覚……みたいなね、具体的な実感があれば楽なのだけども、そういうのとも違うから困ったものだ。

出所も分からない情報に照らされて、やっと歩けるくらいの暗い道を永遠と歩いている。

この情報たちは、確かにうなずけることも多い。

「余計なことはいわないのが処世術」
「気にしすぎだよ。もっと気楽にね!」
「自分らしく生きよう!世界はリベラルだ!」

そんな言葉たちが光源になり泥だらけの悪路を照らして、世知辛い世の中でうまく歩ける方法を示してくれている。

え、でもさ。そもそもそれらの光源って限定されすぎている。
光源って言葉も正しくない。この場合は、ただの光だ。
遥かなる伝言ゲームの果てみたいなもので、その源は必ずどこかにあったけど、中継したトランジスタ達によって無理やり引き延ばされたものではないだろうか。

明らかに未知の未知が多い状態にもかかわらず、わずかな残滓のような光源を信じて足を踏み出す。それって、今自分がどこにいるのかも分からなくならないかな?

進めば進むほど不安になる。
振り返れば、光の道筋はたった一つで、それのたった一つのか細い線みたいなものが世界であり、唯一真実になってしまう。
そんなあやふやな道を勇猛に進めるほど熟達していない。
中途半端に愚かで、中途半端に用心深い。
ゆえにここまで歩いてきてしまった。
この足跡は「未知の道」みたいなものだ。
それ自体が、「どうしてそうなったのか」根拠がはっきりしない線を描いている。

手元のコンパスがまともに機能したとして、自分が思い描いていたのと検討違いの方向に歩いていたら、人はどう思うだろうか?
多くの場合、「これが自分の歩くべき場所だ」と正当化してしまえるのだろう。
そう思い込むことが、いわゆるメンタルトレーニングであったりマネジメントとされている気がする。
かつて働いていた精神科の掲げたミッションを思い出す。地域社会による包括的なコミュニティサポート。その主体は、あくまでコミュニティや地域社会であってクライアント自身ではない。しかし、この道は正しいと決めて、なんならこれを光源として人を救うのだという。
不安は降り積もるばかり。

最近は、光源をたくさん増やすことに従事している。
知らない世界を知る。切り開く。
いうて限界はある。
どれだけ調べたところで、相変わらず99.999999999999999…%に対しては無知のままだ。ゴールがない。どこまでも「極限」の世界で生きているのだ。

ゆえに「知ること」は目標とするには不適当なのだろう。

私自身、好奇心が強い方じゃない。さらに行動力もない。
内在的な感情や情報ばかりに目が向いてしまうという意味であれば好奇心が人一倍強いかもしれないが、肝心の人に伝えるための言葉を学んでこなかった。結果として、ごく薄明りみたいな光源を掲げては、頼りなく道の先を照らし出している。そんなあやふやなものを見ても、人が不安になるのは至極当然のことだろう。

人生を道とたとえてみたけど、実はそれも不適当だと思っている。

世界が大量の無知で包まれていると知ったら、それは「面」なのだ。
さらにいえば「空間」が広がっているはずなのだ。

人間、全員が全員これを把握できているとは思っていないが、それにしたって自分は盲目すぎる。この広がりがまるで目に見えていなかった。
私は「道」どころか「点」でずっと留まっていた。

点よりも道のほうが分かりやすい。
道よりも広場のほうが分かりやすい。
広場よりも空間のほうが分かりやすい。

私が思う興味深おもしろさ、とはつまりはそんなところなのだろう。

私自身、人と話すことが死ぬほど苦手だ。十分とは言えないが、ようやくまともな言語化できそうになってきた。

私は人に「道」を押し付けるのが苦手なんだ。

できることなら広場を提供したいし、もっと言えば空間を提供したい。
そこで自由に意見を述べてもらい、私も十全に「空間」として受け止めたい。でも、それが出来ないから、薄っぺらい不安ばかり与えてしまうのだ。

早い話が、器量がないのだ。要領も悪い。知恵なんて大層なものもない。

私の足元に照らされたヘドロを、人様の世界に放り込むわけにはいかないって気持ちで生きている。
だから話すこと、価値観を伝えることがとんと苦手で、私の話よりも「別の楽しい人の話を聞いたり、小説や文献を読みなさい」となるのだ。
決してタイパやらコスパをメインストリームにおいて「人の話なんか…」となっていたわけではない。
個人的にタイパはヤバい言葉です。極端な話あまりにタナトスってるから。

意味のない話をすることに意味はある。
だが、そこに血が通っていなければ、意味はない。
そんなものはレッツ・ダダイスム☆
せめて無意味性の中に意味を見出そうと努力する、シュルレアリスム的価値観で生きていきたいと思った。
つまりはこれが好奇心の根源なのかも。

好奇心は、先ほど狭量な私の道を照らしていた光源を増やすことにつながる。そうして足元が段々と照らされていくと、そのうち「道」と「面」との境界があいまいになり、2次元的な広がりを加速させていく。間接照明みたいな角度で取り付けられる光源を手に入れたら、さらに「空間」へと発展していくのだろう。

そうした時、私は本当の意味で心を開き、自由を謳歌できる気がした。未知は未知のままだから、結局は、自分の納得度に依存するんだけどね。ただ、私の中で暴れまわる好奇心はまったく納得していない様子だから、まだまだ自由は遠いように思えた。

正直、自分が考えている世界が「面」なのか、「道」なのか、それとも「点」のままなのかって、自覚できない。これは比較することでしか判断がつかないこと。極論、私はずっと「点」のままなのだ。文章に書いたり、アウトプットすることで一見した広がりを持つよう認識されるが、それを評価するのはあくまで他者。私はずっと「私」という一点に閉じ込められたままなのだ。

点(ドット)といえば、スティーブン・スピルバーグ監督の『レディプレイヤー・ワン』でも抽象的なテーマとして扱われていた。
ATARI2600の「ADVENTURE」の隠れた1ドットに存在証明を遺した話があった。「点」には開発者であるウォーレン・ロビネットの人生が込められており、世界中が「イースターエッグ」の文化を共有することなった。

これはただの「点」だろうか。点にしておくにはもったいないドラマ性をはらんでいる。

抽象化されたものは、分かりづらい。
それを紐解く翻訳者がいなければ、人は見逃してしまう。人というか、私が見逃してしまう。それは、なんというか、勿体ない。好奇心的レッドリスト案件です。環境を保全しましょう。保護しましょう。


だいぶ話が飛んでいた。

で、結局「誠実」ってなんなの?って話に戻りましょう。

光源で照らされていない部分は明言しないことだよ!!!!


知らないものは知らないということ。
これは他者に対して開かれた「誠実さ」

分からないものを分からないままにしないこと。
これは自分に対して閉じられた「誠実さ」


ああ、なるほど。誠実さとは大別すると二つあるのかもしれない。
これは嬉しい発見だ。

そういえば、以前にも似たようなトピックについて書いた気がする。


うん、長くなったけれど、簡単にまとめてしまえば、

もっと「自分を開いて生きていこう」ってこと。

なんとまぁ、自分勝手な結論でございました。ちゃんちゃん☆




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