オブラートは横に置いた
職業訓練校に通いはじめて5ヶ月、来月には卒業を控えたある日、授業も終わりに差し掛かった頃に先生が「ここだけの話だよ」と始めた。
ここだけの話は何回かあるが、今回は何だか真剣そのもので教室が急に静かになる。
「君たち、卒業したら就職するだろ。会社で働く上で何をしちゃいけないか知ってる?………知らない?それはねぇ、『できます』と『頑張ります』を言わない事だよ。」
皆んながザワザワする。
会社で働くなら必ず使うテッパンのワードがまさかのNGとは。
「沢山の事を習ったかもしれないけどキホンの『キ』しか、いや、そこまで到達してないかもしれない。ここでやったのは、実際に会社でやることのほんの一部。なのに勝手にデキる人だと思われてごらん。やる気を出して『出来ます』なんて言うと、わかっている体で話を進められて分かりませんって言う隙がない。『頑張ります、やります』って言ったら残業しようが何だろうが頑張ることが当たり前だと思われる。だから、言わない。ゼロから始まるんだから頑張るのは良いけれど、程々にしないと壊れてしまう。」
「仕事は趣味でも生き甲斐でも無い。自分を大事に。体が資本って本当だからね。あと、これ他で言ったら私が怒られるから言わないように。」
人差し指を口に当てた『秘密』のハンドサインをしながら真剣なトーンで話す先生を、いつもよりいいこと言うな〜と思って聞いていた。
前職で働いていた頃、顔の左半分に顔面麻痺のような症状が2度出た事がある。歯医者でする麻酔、あの重く痺れた感じが一日中。特に左の口端が痺れていたので、水を飲む時は必ず右に首を傾けていないと上手く飲みこむことができなかったし、万一そこから漏れたのを見られないために常に口元を大きめのハンドタオルで隠していた。(退職した後病院に行ったがその時には症状が落ち着いていて、もっと早くに来て欲しかったと怒られた)
心は平気なフリができても、体には必ず症状として現れる。あの日々から遠く離れて、実感する。いつだって【いのちだいじに】が1番だ。
その話から数週間後の卒業式の日、クリアファイルに入った修了書を何の感動もなくもらって、先生とはもう会えない寂しさで学校の門を出た。
そして入社する前日。先生のあの話を布団の中で反芻して新しく就職する会社のことを思う。社内を見学させてもらった時、どの部署もすごく静かで「ザ☆職人」の雰囲気だった。こんな所でやっていけるだろうかという不安と、採用されたからにはやるしか無いの覚悟とが頭の中で回る。そしてグルグルした頭で1つ決意をすると、5時間後に目覚める為に目覚ましを確認して寝た。
朝、スーツに着替えて会社に行く。やるしか無い、できるかな、やってやる!…………………いや、やっぱ無理かも…。朝ごはんも食べれず、運転中もいろんな感情が混ざって胃が痛い。会社で作業着に着替えたら、朝礼の時間まで事務所の端っこで待機して過ごした。
朝礼が終わり、社長から「新人さんが入りました」と紹介される。では一言、と促されて昨日の決意を(自分的には)ハキハキと喋った。
『本日よりお世話になります、とお と言います。前職は人と関わる仕事をしていました。そこから機械科のある訓練校に入ってこちらに入社したので、正直、この業種や業界のことは全く分かりません。』
ー 昨日、布団の中で決意した事。
出来ますっていうのがダメなら何て言おう?明日から働く会社は機械科で習ったことなんててんで役に立たない業種で、円柱の素材からネジを切り出すこともなければCADで歯車を設計することも無い。しかも会社の人は私の「機械科を卒業した」という情報しかないから、絶対にデキる人が入ってきたと思うだろう。ならいっその事、最初から「わからないし出来ない人」として認めてもらうのはどうだろう。そして、それを言えるのは明日だけだ。ー
案の定。静かに、でもザワザワっとした動揺が先輩達の間に波みたいに走る。その波を感じながら、続けた。
『ご縁あって働かせてもらうので、精一杯頑張ります。分からないことが分からないので、ご迷惑も沢山かけると思います。でも、そのぶん早く一人立ちして仕事ができるようになりたいので、ご指導宜しくお願いします。』
なんとか言い切った。しどろもどろで自分でも耳まで真っ赤なのが分かるくらい緊張した。呆れられたのかぱらぱらと拍手をもらい、後は定時まで朝の緊張を引きずって仕事を教えてもらった。
それから今年で3年目。私が「本当に何にも分からない人」だから先輩も師匠もすごく優しく教えてくれる。
あの時、ありきたりに挨拶していたら今の私はどうなっていただろう?心も体もボロボロで先輩達とコミュニケーションも取れず、師匠と呼べる人さえ出来なかったんじゃないかと思う。
先生があんなに言っていたのに結局頑張りますと言ってしまったし定時で帰ることは稀だけど、あの朝礼で言ったことを有言実行していると思えば「自分で言っちゃったからなぁ」、ともう一踏ん張りできる。
この業界は、10年でやっと一人前と認められるそうだ。まだ3年目の私には、師匠どころか先輩達の背中や陰さえ見えない。今日も目の前のことにいっぱいいっぱいになりながら、遠くから呼ばれる声の方へ向かっていく。
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