Design&Art|デザインを探して 〈02. ヘルシンキの残像〉
「見えない」ということが、かえって何かを予感させてくれる。
そんな美しい詩みたいな時の流れが、きっと日常にはあるはずだ。
失われた時を求めて、不確かな輪郭を掴もうとして、何かをもっと見ようとする。精一杯に感受しようとする。
まるで、冬の空気に澱む春の香りを感じるように。
フィンランドに住んでいた頃、ひとつの素晴らしいカメラに出会いました。
私たちが留学していたアアルト大学では、専門的な機材を無償で学生に貸し出してくれていて、その中にはとても高価なものや価値の高いものが含まれていました。素晴らしいカメラとは、そこで出会ったライカのM3というフィルムカメラのことで、生産から半世紀ほどの年月が経ってもいまだに名作と言われ続ける貴重なものです。
ドイツ製の貴重なヴィンテージカメラ。はじめてのフィルムカメラとしては分不相応とも言えますが、「はじめて」だったからこそ、カメラの楽しさを存分に味わうことができたのだと、そう思うこともあります。
幸か不幸か、ちょうどこのカメラを借りていた頃にコロナで大学が閉鎖され、返却期限は無期限に延長されました。「大学に来れるようになったら」と連絡は来たものの、先行きは不透明なまま。ならば、とフィルムを買って人のいないヘルシンキの街を撮りはじめました。
「見えない」ということ。
それはけっしてなにかの比喩ではなく、はじめてのフィルムカメラから出てきた写真のことでした。よいカメラとレンズを借りることができたものの、使い方がよくわからない。しかし、このカメラが高価であることは認識していたため、下手にいろいろな部分をさわることもためらい、結果としてボケている写真が大量に生まれたのです。
あまりにボケていたため、現像をお願いしていたカメラ屋のスタッフからも「これを現像してよいか?」と再確認されましたが、物は試しと全てのフィルムを現像をしてもらいました。
ぼんやりとしたスオメンリンナ島の風景と、「Out of focus」と書かれた備考欄。カメラとの出会いはここから、と言ってもよいのかもしれません。
はじめの頃は、フィルムとデジタルの両方で写真を撮っていました。それは、フィルムカメラへの自身の知識と技術を信用していなかったから。しかし、それがかえって「写真とは何か」「見ることとは何か」を考えるきっかけになりました。
ボケていても、目で見ている風景とあまり変わらない夕暮れ時のフィルム写真。美しいものって、ほんとうはとても不確かなもの、不鮮明なことなんじゃないかと思ったりしました。
数日後。カメラの使い方をよく調べてから、近くの小さな森へ撮影に。
以前の写真の、望遠鏡をのぞいているような丸い黒フチはどうにか解決したものの、それでもなかなかピントが合わない。デジタルカメラやスマホのオートフォーカスに慣れていたため、目測で焦点を合わせることはとても難しく感じられました。
時にピントが合ったり、合わなかったり。けれどもなんだか愛おしい写真である、と感じたことは鮮明に覚えています。それと同時に、私たちの記憶やイメージって、このくらい曖昧なんじゃないかなとも思いました。
「冬の空気に澱む春の香り」と冒頭で書きましたが、エモーショナルな記憶やノスタルジックな風景って、想像してみると、とてもぼんやりとしていて抽象的だなと。
最後に、また別の日に撮影したヘルシンキの中心部の風景を。
ヘルシンキという言葉から連想される風景は人それぞれかと思いますが、ここにあるようなふとした日常、名前もつかないような風景は、なんだかとってもヘルシンキ「らしいな」と思えます。それはきっと、写真がぼんやりとしているからこそ、目に見えているイメージの奥にひそんでいる何かを探そうとするからであって、その行為がかえって人の記憶や想像を鮮明にしてくれているのでしょう。
世界をどう見るか、捉えるか。
それは写真に限ったことではなく、デザインやアート、映画や文学、哲学などあらゆる分野に共通するテーマだと思います。
切り取られた四角形に映るぼやけたヘルシンキ。そこから想像されるイメージは、いったいどこから、どのようにやってくるのでしょう。歩いたこともない街の風景が写真を通じて頭の中に映し出される。そんな体験がつくれたら、なんてことを考えながら、フィンランドの「美しいもの」を言葉と写真でどうにか伝えようとしています。
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